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イスラエルの嘘(2)

モーセの話に行く前に、 
旧約聖書以外にイスラエルと言う名前が現れたのはいつでしょうか? 

これもエジプトの歴史に刻まれています。
紀元前1220年のものとされる石碑に、
ラメセス2世の後継者メルネプタ王と言うファラオが
シナイ半島の地カナンまで遠征して戦いに勝ち、
「イスラエル」という名のものたちを破ったという記録があります。

その上、イスラエルのテル・ゲゼル遺跡からは、
焼き払われた建築物や犠牲者の遺体が地中から大量に発掘されています。

あれ、モーセは何時シナイ半島のカナンの地に行ったのでしょう? 
紀元前13世紀に出エジプトがあったとしたら、
その100年後には、
ヘブライ人の国であるイスラエルは滅ぼされています。

出エジプト記にはファラオによる
イスラエルの滅亡の記録はありません。

紀元前11世紀に出エジプトがあったとしたら、
紀元前1220年に滅ぼされたイスラエルこそが、本当のイスラエルで
モーセが連れて行ったカナンの地は
すでにファラオにより統治された土地で、
エジプトの王の土地にエジプトの王の土地から行くと言う
意味不明な現象が起きてしまいます。

歴史上の記録と出エジプト記を比較すると、
イスラエルが拠り所とする出エジプト記がおかしいと思います。

この辺を考慮して出エジプト記を読みますと、
根本がおかしいので、
まともに出エジプト記を呼んでも意味がないような気がしますが、
ここで、出エジプト記に戻ります。

出エジプト記第二章~第十二章までは、
モーセがパロ(ファラオ)との
ヘブライ人がエジプトから出ていくまでのやり取りが大多数で、
あとは、モーセが主との契約についてが書かれています。

ついでに言うと、当時のヘブライ人やエジプト人は多神教で、
エジプトの世界初の一神教ともいわれる
アテン神信仰を追求したアクエンアテンが現れる紀元前13世紀までは、
一神教と言う考えはありませんでした。

出エジプト記第十三章はモーセと旅する一団の事情ですが、
ここに驚異の人数が書かれています。

出エジプト記第十二章37項~38項
さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。
女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。
また多くの入り混じった群衆および羊、牛など
非常に多くの家畜も彼らと共に上った。

六十万人もの建築労働に従事した非エジプト系居留者(奴隷)が
ファラオの統治するエジプトの地から逃げ出したのですから、
エジプトに記録があってしかかるべきですが、
一切、エジプトには記録がないので、
そんな事実はなかったと考えるしかありません。

出エジプト記第十三章は
主が昼は雲として夜は火の柱として歩ませ続けたことがかいてあり、
残りの大部分は主との契約について書いてあります。

出エジプト記第十四章は
有名な海を割る話です。

出エジプト記第十五章は
詩編で、海を渡ったヘブライ人がエリムで野営をした場所で
おそらく、スエズの南南東約88㎞の所にある、
シナイ半島のワディ・ガランデルではないかとされています。

ここで、カイロからエルサレムまでグーグルマップで調べますと、

ガザ地区が通行不可なので、どうしても内陸部を通るようになりますが、
それでも徒歩で164時間でエルサレムに着いてしまいます。
海岸を通ったとしたら、もっと短い時間で着くことは間違いありません。

ルート的には、エジプトのカイロあたりから、南下しスエズ海を割り、
反対側のシナイ半島のワディ・ガランデルに行くルートですね。

出エジプト記第十六章には
エジプトからワディ・ガランデル通り南シナイ半島のシンの荒野まで
二か月かかり到達したと書かれています。
どう考えても六十万人のヘブライ人が
徒歩で約100㎞歩くのに二か月はかかりませんし、
もしそんなにかかったら食料や水が持ちません。

そこで、主の御業の登場です。
主の契約を守れば食べ物が貰え、飢えなくなりますが、
ファラオの奴隷か、主の奴隷かの違いしかなく、
ヘブライ人は基本奴隷根性が抜けてはいません。

また、この第十六章にはとんでもないことが書いてあります。
出エジプト記第十六章35項
イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間カナを食べた。
すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでカナを食べた。

エルサレムまで、あと約200㎞歩くのに、
40年もかかって到達します。
これは遊牧民として40年生活していたと考える方が自然です。
そして、この食べ物をマナと呼んだりカナと呼んだりしています。
主の御業で生まれた食べ物でさえ、名前がいい加減なのは、
どうしてでしょうか。

出エジプト記第十七章は
今度は水が無いとヘブライ人が騒ぐので、
主の御業にて水が湧き出る話などですが、
ここにも不思議な内容が書いてあります。

出エジプト記第十七章8項
ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った。

アマレクと言うのを調べてもどこにも記録も説明もありません。
また、レピデムもわかりませんが、
ホレブの岩の上と言う記述があるので、シナイ山のそばだと思われますが、
この辺りはアラブ人の商人も行き来している場所なので、
アマレクはアラブの商人を狙う強盗団の事かもしれません。

ヘブライ人の集団は、出エジプト記第十二章にあるように、
女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人もいるのに
アマレクと戦うと勝ったり負けたりしています。
それもモーセが腕を上げていると勝ち、下げると負けるのです。
まぁ、実際はヨシュアと一部のヘブライ人が戦った様ですが、
逆にアマレクは何人いたのでしょうか。
10数人だったようにしか思えません。

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