伝道の宣言
キリスト教と、仏教とで思う事。
少し長いですが原文の一部を記載します。
マタイ伝福音書 第10章
かくてイエス、十二弟子を召し、穢れし霊を制する権限を与えて、
これを逢ひ出し、もろもろの病、もろもろの疾患を
医すことを、得しめたまふ。
十二使徒の名前は左のごとし。・・・・・(中略)、
イエスこの十二人を遣さんとて、命じて言ひたまふ。
『異邦人の途にゆくな、またサマリア人の町に入るな。
むしろイスラエルの家の失せたる羊にゆけ。
往きて宣べつたへ、❝ 天国は近づけり ❞と言え。
病める者をいやし、死にたる者を蘇へらせ、
癩病人をきよめ、悪鬼を逐ひだせ。
価なしに受けたれば価なしに与えよ。・・・・(中略)。
観よ、我なんぢらを遣わすは、羊を豺狼の中に入るるがごとし。
この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。
人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、会堂にて鞭たん。
また、汝らわが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。
・・・・・(中略)。
かれら汝らを付されば、如何なにを言はんと思い煩ふな、
言ふべき事は、その時さづけられるべし。
これ言ふるものは汝らにあらず、
その中にありて言ひたまう汝らの父の霊なり。』
漢訳 雑阿含経 39、16、縄索 ・ 南伝、相応部経典 4、5 係蹄
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、パーラーナシ―の・・・・・(中略)。
その時、世尊は『比丘たちよ』と比丘たちに・・・・(中略)。
そこで、世尊は、かのように仰せられた。
『比丘たちよ、わたしは人天の世界のすべての係蹄から免れた。
汝らもまた、人天の世界のすべての係蹄から自由になったのだ。
比丘たちよ、いざ遊行せよ。多くの人々の利益と幸福のために。
世間を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために。
ひとつの道を二人していくな。
比丘たちよ、初めも善く、中も善く、終わりも善く、
理路と表現とをそなえた法を説け。
また、まったく円満かつ清浄なる梵行を説け。
人々のなかには、汚れのすくなくない者もあるが、
法を聞くことを得なかったならば堕ちてゆくであろう。
聞けば悟る者となるだろう。 ・・・・(中略)。』
その時、あしきもの魔羅は、世尊のいます所に至れり、
偈を持って世尊に語りかけた。・・・・(中略)
その時、あしきもの魔羅は、
『世尊はわたしを知っている。世尊はわたしを見抜いているのだ。』と
苦しみ委れて、そこにその姿を没した。
文化や政治の違いなどもあるでしょうが、
イエスキリストが言う、サマリア人の町に入るな。
つまり、サマリア人にはキリスト教を布教する必要は無いと言う
選民思想があります。
もちろん、使徒たちの命に係わる問題ですから、
危ないところには行くな、と言うのも分かります。
それでも、あまねく愛を伝えるはずのイエスキリストが、
自分の教えを教える必要がない人々が居る、と言うことを
堂々と言うこの違和感。 アイフルではありませんが、
そこに愛はあるんか?
それに対して、世尊が言うのは「ひとつの道を二人していくな。」
ですから、いかに多くの人に世尊の得た考えは、普遍性があるモノと
考えていたことが分かります。
その上、汚れのすくなくない者も、あしきもの魔羅も、
聞けば悟る者となるだろうと、敵対者も含めて、悟れると語ります。
どちらの宗教が上だとか下だとかは分かりません。
キリスト教は、概念の教えで信じるか信じないか、
仏教は、実践の教えで、悟りはそこにあるのだから見なさい、
と言うような違いではないかと思います。
仏教に無記説相応と言う部分があちらこちらに出てきます。
大きくは、南伝 相応部経典 44,8 婆蹉 や
漢訳 雑阿含経 34,22 未會有 にまとまっています。
この中に、比丘や遊行者が世尊に色々なことを問います。
「宇宙は有限でしょうか?」
「宇宙は無限でしょうか?」
「霊と体は同一でしょうか?」
「霊と体は別々でしょうか?」
「人は死後も存在するでしょうか?」
「人は死後には存在しないでしょうか?」などなど、
現在の物理学や哲学でも問題になる問いを発します。
それに対して、世尊はこう答えます。
「そのように問われても答えない。」 なので無記と言うようです。
それでも、色々な参考書には、
そのような問いに執着していると、悟りを得る過程の邪魔にしかならない。
と書かれているものが多いですね。
聖書や、阿含経やパーリ語仏典が今は無料で読めるサイトがあります。
お正月の新しい年がはじまるのにあたり、心をリセットするのも
良いことではないでしょうか。
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