見出し画像

理解できないものを肯定する世界

ぼくがいま「食」や「農」という分野に興味を持っているのは、広い意味で言うと「生き方」や「働き方」というテーマと無縁ではありません。むしろ、しっかりと直列で繋がっています。

まず大前提として、そして個人的な思考の癖みたいなものとして、ぼくは「生き方」や「働き方」をもっと多くの人が発明できる世界がいいと思ってます。「そういう生き方があるのか」「そういう働き方もよく考えたらアリだよね」みたいにお互いがお互いに気付きと発見を与え合える社会。そして、ぼくももちろんその1つのモデルケースを示すように成長したいと思ってます。

「生き方」や「働き方」の話は漢字の違う「型」の話に終始しがちです。まるでみんな、だいたい何パターンかしかないと無意識に思っているような。「結婚」とか「家を買う」とか、うーん、ライフプランってそんなに聞いてて退屈なものでしたっけ?って思います(結婚とか家を買う自体を否定しているわけではないのです)。それが、ずーっと疑問で、でもうまく説明できなくて折り合いをつけないままここまできています。

ちょっと違うことをしようとする「出る杭」は徹底的に叩かれます。SNSで生まれた「いいね」の文化を凌駕する「否定」の文化が幅をきかせてなんだか暗い気持ちになります。

そんな「型」にがんじがらめになってしまった世界だからこそ、もっとお互いに肯定しあえる世界をみてみたいと純粋に思います。だれかの理解できない挑戦には、まず「いいね」を。理解できないことを否定しないを、ドレスコードに。

「食」にも「農」にも、そこには人間の五感に基づく確固たる「実感」があります。その「実感」を起点にした「生き方」「働き方」から、何か新しい発明品が生まれないだろうか、とかなんとかぼんやり思っているのです。「頭」だけで仕事をしていたら、きっと大した発明にはならない気がします。

自分でもこの辺りのことが言語化できなくてもやもやする日々ですが、他でもない自分が否定しまったら潰れてしまう新芽のようなものなので、まずは肯定してあげようと思うのです。そこから、なにか始まるかもしれないので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?