失敗や逃げから始まる人生もあると思う。(2)
死ぬ気で勉強した半年間。
卒業式予行の日に語学学校の入学試験を受けた。
会話と筆記テスト。すごく緊張した。
私の選んだ語学学校は101-112までクラスがあり、109のクラスを修了すると提携大学の入学許可が出るというシステムだった。
私が入ったカリキュラムは、4月から9月まで日本で勉強し、10月からは渡米して(必要に応じて)希望大学の近くにある姉妹校で109以上のクラスを修了し、翌年1月もしくは4月入学を目指すものだった。
スタートがどのクラスになるか次第で、入学時期も半年ずれることになるので、試験結果は重要だった。
スタートは105。4人のクラスだった。
出欠は厳しいし、宿題も多い。授業での発言などの参加度も評価対象だったから、毎日授業の予習と宿題でいっぱいいっぱいな日々を過ごした。校内は日本語禁止。自然とクラスメートとのメールや電話も英語になっていった。ディベートの授業の準備で夜中までファミレスで準備することもあった。確かディベートのテーマが「iPS細胞の是非について」だった。難しかった記憶がある。こうやって振り返ると懐かしい。
半年間勉強だけでなく、人間関係でもいろいろあったりして辛い時もあったけど、留学を決めた時の気持ちがいつも私を支えてくれていた。
9月に卒業。同期の大半は10月に渡米をしたけれども、私は余裕があったので11月渡米にした。
一度も行ったことのないアメリカでの生活がいよいよ始まるのである。
初めてのホームステイは大失敗?!
不思議と日本を発つときに涙は出なかった。泣き虫の私が泣かなかった。
希望に満ち溢れていて興奮していたのだと思う。
でも父に渡された手紙を飛行機の中で読んでいるときに涙腺は崩壊した。
人生初めてのアメリカでのホームステイはカリフォルニア州サンフランシスコ郊外のオークランドだった。
アフリカ人女性がひとりの家でのホームステイだった。なぜかいるはずのない猫がいて、あるはずのインターネットも繋がらない。彼女はミールプランがあるから、朝ごはんはベーグル買ったやつを自分で食べていけ。夜ごはんもチキンにゆでたインゲンだけ、とか。徐々に家で食べることもなくなっていった。たまに来客があったけど、そこに呼ばれることもなく、かつ言語は英語ではなかった。
ほぼ毎日泣いていた。当時は今みたいに簡単に日本と連絡が取れる環境じゃなかったし、繋がるはずのインターネットも繋がっていなかったから、メールすら打てなかった。日本から持ってきた携帯電話も思いのほか使い勝手が悪かったし、国際電話カードもそんなに使えるほどレートは安くなかった。
いろんな面で思い描いていたホームステイとはかけ離れすぎていた。
そんな話を友達のホストマザーにしたらうちにおいでよと言ってくれて、私は結果的にそこに引っ越すことにした。シングルマザーだったけど、ボーイフレンドがいて、同い年ぐらいの娘もいて、すごく優しい学校の先生だった。夜ご飯はみんなで家で食べることも多かったし、週末はいろんなところに連れて行ってくれた。大学に入るときの家探しまでも手伝ってくれた。
今振り返れば、最初のホストマザーには私の歩み寄りが足りなかったのかもしれないけれど、2件目のホームステイがなければ、私はアメリカでやっていくことに不安しか抱いてなかったと思う。
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