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じぶんめも


 いつから他人に対して諦め癖がついたのかな、と考えた。

 小学2年生の時、同じクラスになった子に「友達になろう」みたいなこと言われた。私は友達ができて喜んでいた。しかし、いざ遊ぶと、結構気の強い子2人にいいようにこき使われたり、傷つくこと言われたりして、別にこんな思いするなら一緒にいなくていいんだけどなぁなんて思ったりしながら、でも、強く言えなくて、そのままな自然にクラスが変わるまで待っていた気がする。ちょっと楽しいこととか何かしてくれたりしたら、一緒に遊んでよかったかもと思いながら。よく考えると、大袈裟に言えば、DVと同じ手法である。

 「友達になろう」って言葉だけで、私が勝手に都合のいいように解釈してしまい、期待したから裏切られた気持ちになったんだなぁと思った。当時の私はそれはそれはもう純真無垢で、友達になろうという言葉をとても信じていた。これで友達だ、やった。
 だけど、上記の経験を経て、よく考えたら、友達なんて自然になるもんじゃね??
 もう友達になろうって事前に宣言してくる奴は信じない、と決めつけてしまった。

 また、両親に対しても、割と、学校が嫌だった時に話を聞いてくれなかったり、不登校にさせたくないから学校行けって言ったり(仮病使った時はたまに休ませてくれた)、味方じゃないと感じることが多かったから、それもあるかもしれない。
 留学で辛い時もお前が決めたんだろと愚痴も聞いてくれなかったし。自分たちは親戚のこととかお互いのこととか私にたくさん愚痴を言うのに。
 体育着自分で洗おうとしたら、お母さんがやるよって言ってくれたのに次の日洗ってなかったりしたし(それも謝らないし)。
 たった何個かの出来事を大きく捉えてしまい、他人に任すとろくなことがないという考えが染み付いてしまったのかもしれない。それを許す大きな度量が私にはなかったのだ。


 こうした経験を勝手に結びつけてしまい、目の前の新しく会う人はそうとは限らないのに、人はどうせ裏切るから、最初から信用しない方が傷つかない、という思考に至ったと思われる。
 期待するよりも、最初から信用しない方が自分が傷つかない。心を消費するエネルギーもより最小限に済む。


 ここ最近はそこまで考えていない。
 この人は「絶対裏切る」ではなく、「裏切る可能性もあるかもしれない」くらいに留まった。
 人は意図的に裏切ることもあれば、結果的に裏切ったように見える場合もあると学んだからだと思う。
 一時期よりは軽度になったものの、他人に対して「絶対的信頼」は持ち合わせていない。それが普通かもしれないけど。でも、他人に対して信頼や期待を素直に抱ける人はすごいと思う。抱いてみようとする人も。
 自分から他人に対してこうして欲しいみたいなものを、私は持ち合わせていないし、いなくなったらまあそういうものだろうな、と思っている。そう思ってる方が、関係が続いた場合にラッキーくらいに思える。結局は自分が傷つかないために、他人に対して積極的な感情を持ち合わせていないのだろう。


 しかし、人に期待や信頼を向けることによって、得られる変化もあるのではないだろうか。
 誰だって、人に、あなたならできる!や、あなたに任せたい!って言われたら少しはやる気になったり、その人に対して好意的になったりするのでは。そうだとしたら、こいつには期待されてないな、なんとも思われてないなって思われたら、相手がそう思う可能性を潰してしまっているかもしれない。そうなると、他人に期待や信頼を抱いていた方が、プラスに働く可能性がある。
 何にも思わなければ、傷つきはしないが、それによって得られることは安定のみだ。何も変化はない。


 ちょっと何が言いたいのかわからなくなってきた。ふと思いついて整理したくなっただけなのでまとまってなくてもいいか。

 とにもかくにも、私は他人に対して積極的な感情を抱いてないのが良くないなと思っているので、それを可視化しておきたかった。
 そんなことないよと言ってくれる人もいるかもしれないけど、私は周りと比べると他人に興味がないなと思う。
 1人でいる時はそんな自分を気にしないけど、集団の中にいるとどうしても際立っているような気がして、気が咎めてしまう。
 他人に興味持つってなんだろ。
 でも他人に期待しなくても生きていけるし、話したりするのは楽しいし、それじゃだめなんだろうか。自分で勝手に良くないんじゃないかって思ってるだけなんだけど。まあこうやって、批判的に自分のことを考えられる自分は別に嫌いじゃない。

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