バツの悪い仏前

数ヶ月前にssに相談した「父親の仏壇の前ですら当たり障りないことしか言えない」ということ。うちでは普段は食事の前にお膳を上げるタイミングで線香をあげる。

毎回父と祖父と亡くなった猫3匹、犬一匹の名前を念じた後、心の中で語りかけることとしては
・「今からご飯一緒に食べようね」
・「帰ってきたよ」
・「東京に帰るよ お母さんのことよろしくね」
この3パターンしかない。
帰って来たよは帰省の初日、お母さんのことよろしくねは帰省最終日とすると、普段は仏前でご飯関連の話しかしていないことになる。

そこに加えてだいたいは「美味しそうだね」「(父の好物を)お母さんが作ってくれたよ」「〇〇からの頂き物だよ」くらいの差分だ。

この当たり障りのない、天気の会話をする時のようなどこにも向かわない言葉の羅列は、仏壇に父の位牌を置いた日から続く悩みのひとつだ。
父が亡くなって今年で4年が経つ。実家は年に数回帰省するが、今日あったこと〜積もる話しのようなことを仏壇に向けてしたことがない。

今に始まったことではなく、生前からまともにしたことごない。話を全く聞いてくれない人ではなかったが、よく話したなと思える日は感覚としてはイベントごとに近しい。
父が一方的にする仕事の話を良く聞いていたが、今思えば互いの伝えたい本題を避けあったところにあるトピックの一つのように思う。私のほうは意識的に自分の話しをするのを避けて来たように思う。思い出すとバツが悪い。現時点でも話したいことを避けているのは変わらないので、線香を上げる時本当にバツが悪い。

自分にとって良き父であったことは前提にあるが、家族としていまひとつ踏み込めなかった面に強い後悔が残る。

いちいち相手を伺って、直接自分の話しをして来れなかったこれまでを思うと、今は姿が見えない分、一方的にリラックスを決め込んで話すことができるこの状況は、むしろ絶好の機会と考える。
そこで仏に対して話しが通じるのかというところだが、

自分の考えとしては
・ぼんやりと、今自分のいる空間とは別の空間にある、あの世という枠組みを想像する(私は霧深い、雲中のような場所を想像する) 普段彼らはそこに居て、仏壇には存在していないが、声だけが届く状態 としている

・上記を踏まえて、仏壇には祖父の位牌と父の位牌両方を置いているのに加え、亡くなった親せきやペットの写真もあるので、マンツーマンで話す感覚ではない
墓前も祖父の墓に入れているので同じくその感覚

・祖父にも自分の近況や感情を伝えたい気持ちは同じなので、わざわざ父と話をわけなくても良いが、複数人向けに想定して話すと、より当たり障りのない言葉になりそう

・死者は生前繋がりのあった生者のいる空間に常にぼんやりとアクセスしている(要約:たぶんいつも見守ってくれてるんだろうな) 常に見ていると思っている

・仏前でなくても、自分の姿や話は届くという前提で考えている

私の目標とするところは
・今日何があったかのレベルで、自分と自分の周りについて話す(自分を知ってもらう一環。もう居ないけど)
・自分にとって大事だと思ったことを伝えるようにする
・念じるだけではなく、普通に会話するみたいに、実際に声に出して語りかけることをしていきたい

現状たまにシンプルに「お父さんに会いたい」と思うときですら、発声ができない。

「(いきなり積もる話しじゃなくても)何気ない話しから初めていけばいいんじゃない」とssからは背中を押してもらったが、そこから数ヶ月それすらも実行することもできなかった。

最近は家に帰ると、80号の絵と向き合うのだが、毎日どうにも上手くいかず、本当に情けない気持ちになってくる。そういうことも思いついたタイミングで、父に口に出して言えたらいいのに、と思う。しかしそれは思考としてよぎるのみで、独り言としても声帯を震わせない。

今日も家に帰って絵の続きに手を入れた。何時間かは何も考えずに、とにかく手を動かすようにするが、時間を追うごとに思考のほうが優位になって来て、気になる箇所が目につき出すと情けなさが溢れてくる。今日はもう描くのやめよう。筆を置く。いつものパターン。

連想的に、そういえば最近仕事でもすごく情けない気持ちになったなぁということを思いだす。
数日前、電話越しに取り引き先の女性から、攻撃的な姿勢を受けたとき、とくに戦う意味もないと飲み込んだあの瞬間。
女性と明記したことについては、私が最近女性性を意識するタイミングを増やしたからだ。
マッチョな気質の女性と対峙すると、言い返そうとか、対等に張り合おうとか思う前に、同時に別のことを考える。その姿勢には賛同出来ないなとか、けどマッチョ気質にならざるを得ない社会とか、つい先日の都知事選ことや、前の現場で電話口の女性とよく似た気質の女性にミスを責め立てられた後、相手の過失が判明したが絶対に謝られなかったこと、それも納得できなかったのに飲み込んだなとか。相手の攻撃に対して抵抗するべきだったんじゃないか。もしそうしていたらそんなに良いものだったのか。関わりを避けられない、対話することに骨の折れる女性の社長とか。自分は社会で戦える女性になれていないんじゃないか。そもそも戦いじゃないんだよなとか。社会人に擬態しているフリするだけでいつも余裕がない自分とか。普通に精神的に参ったなとか。

そんなことも全部、近況としても、自分の気持ちとしても、声に出して父に話しても良いことだったが、父に対して語りかけるつもりで口を開いたら、なぜか上手くいかない。ひと言も言葉は出てこず、呻きのような大きな泣き声しか出てこなかった。

それでも一応言葉を出そうと口は開けるのだが、その内に次は父に対して納得出来ないことに何も言葉を返せずに泣くだけだった無力さがぶり返す。頭の中では「泣くのは弱い奴がすることだ」という父の口癖も蘇る。

さらには、父とひと言も交わさない休日のあの陰鬱な時間がぶり返す。
父は何日も不機嫌で同じ空間にいるが無視をする。逃げた奴だと思われたくなくて、自分の部屋に戻らず耐えた気持ちを思い出す。

結局今日もひと言も発声なく終わった。
こうやって毎日泣きじゃくる姿も「お父さん、今見てるんだろうな」と思う。それもバツが悪い。
自分の話しをするのにここまで苦悩することもないと思うのだが。

"自分の意見や本音を言おうとすると涙が出る"という人が一定数存在するらしいが、私は確実にそれだ。
言葉が涙に置き換わると言葉の対等なコミュニケーションが崩壊するので、非常に気に食わない。相手は尚更のはずだ。そこに罪悪感を覚えて余計に萎縮するので分が悪い。それも自業自得のように思う。
言葉を出す為に口を開くのに、泣いてばかりで言葉が出てこないのは本末転倒なので苦しい精神状態になる。

原因は感情に乗せる以外に本音を伝えることが出来ない状態が招く惨事らしい。普段本音を抑えて抑えての繰り返しで、怒りや悲しみの感情をベースにしないとそれを出せないことになっているようだ。

本音を伝える練習としては、まずはぬいぐるみに向かってやってみろとのことだ。ぬいぐるみにすら本音を話せないやつが、人と本音なんて話せるわけがないと。
簡単そうに思えて実際に全く出来ないし、やろうともしていない。
とりとめのない話を家族に聞いてもらうことに憧れていた。仏相手とはいえ、今はそれが叶う。
仏前や、遺影の前、自分の一人暮らしの部屋というクローズドな空間ですら、話し始めると喉がつかえる。
ぬいぐるみどころか死者に対しても思ったことを話せず、となれば生者に対して話せる日は来るのかということになってしまうが。わしゃ生者ちゃうんか。

相手に対していちいち思うことを伝えようとすると、小言や愚痴、嫌味などに近いものになっているような気がする。それも伝え方の問題か。
いいと思ったときも口に出すようにしているが、小言のように伝えてしまった時のほうが、自分の中でも目立って印象に残っている。

文章に書こうとすれば、自分の中で整理をつけながら言葉を選ぶことが出来るし、書き直せるので、自分の考えが大きな齟齬なく反映出来ていると思う。
現実では、言葉が出てくるのに時間がかかるタイプだと思う。言葉に詰まるし、吃る。
気がついたらもうインターネット的なコミュニケーションの方が慣れ親しんでしまったのかもしれない。そして自分の思考を文章にする上での齟齬は少ないかもしれないが、伝わり方の齟齬が大きくないとも限らない。

日頃、TPOや伝え方を選ばない明け透けな物言いをすることの方が多い中で(ここに書いているようなことも含めだと思う)、本音の原液なのかと思ったと、友人には驚かれるが。

果たして友人たちに対するその物言いすら本音であるのかもはやわからない。パフォーマンスの一環なのかもしれない。自分が本音と認識してるものが本音じゃないかもしれない。疲れた。眠い。とか身体に則した反応が、私の思う本音に近いかもしれない。

これ、手紙書くとかから始める方がいいんじゃないか。
と思うが、ささやかな枚数しか入っていない便箋のせいか、いきなりボールペンで書き始めるせいか、だいたい本音が引っ込みがちな文章が爆誕する。

まあまだ出来ないなら…9月の命日くらいからやりはじめるでもいいか。



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