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認知症を期に家の中で誰かと唐揚げを取り合う夢が叶う

祖母が今日で90歳を迎える。
金曜日から熱と関節痛で悩まされていた私は、週末帰省することができなかった。現在祖母は実家から徒歩10分の施設で暮らしており、近くにはいるがコロナがあってからは面会も思うように出来なくなっている。

ここ数年は、元々祖母が飼っていたペットたちが次々と寿命を迎え、祖母にも伝えねばと思い、面会のたびに悲しい報告が増えた。
めでたい時にこそ会いに行けない事を歯痒く思う。
最近は面会に行く母のことが誰だかわからないらしい。私ももう覚えられていないかもしれないが、しばらく会えていないのでそれすら確認出来ない。何になるかもわからないが祖母の誕生日に思いを馳せながらこうして文章を書いている。

祖母という人・関係性を振り返るととても不思議なもので、私は祖母が認知症になってから、祖母のことがとても好きになった。
長い間祖母との関係に悩んでいた私は、認知症を通して祖母を理解することが出来るようになるとは思ってもみなかった。

祖母は昔はずっと人の悪口ばかりを言うような人だった。その不満の大半は友人や近所の人のことだ。基本的に人の話はほとんど聞かず、大きな話し声で、自分の喋りたい事を喋りたいように話し続ける。それに会うたびに同じ話しかしない。
私にとっては知らない人たちの悪口だったが、全然いい気分ではなかったし、祖母の一人喋りはその場にいる誰とも会話が成立していなかった。本人にその自覚があったのかはわからない。

外では無理していい人に徹しており、不満を当人たちには言えないことが原因だった。家族にも普段は耳障りの良いことばかりを言う。おそらくそれは全員に対してそうであり、ありもしないことを褒めたり、物を買い与えて関係を証明しようとする。表面ではいい人を演じつつ、実際はその場の空気や人の気持ちを無視する祖母の言い振る舞いは、とてもガサツな性格であるという印象を私に与えた。そういうところも嫌いだった。

義務教育が始まって以来は「よく勉強が出来る子だ」と言われることに納得ができなかった。ずっと出来ない自分に苦しんでいたから。
そう言われるたびに認識の齟齬を正したくて自分の状況を伝えたが、それが10年以上続くと半ば諦めた。
幼いながらに祖母はただ褒めればいいと思っている人だとわかっていた。”勉強ができるいい子のイマジナリー孫”を褒め称える祖母の言葉は、それの正反対の自分からすると、一体誰の話をしているのかわからなかったし、それをストレスに感じていた。会うことや電話が苦痛で仕方なかった。

祖母はアル中だった。普段いい人を演じている反動で、酔うと人格が攻撃的に変わった。泥酔すると片っ端から電話をかけまくり、普段直接言えない不満を爆発させる。本人は全く覚えていないのだが、友人と長続きしないのはそのせいだ。なのでいつも一方的に相手から関係を切られたのだと思い込み、それが悪口に繋がるというわけだ。祖父は後々電話先に弁明してくれるような気の利くような人ではなかった。

祖母の付き合う上品な友人たちにとっては、非常に理解し難いことであっただろう。(少し意地悪な言い方になってしまったと思うが、何度か祖母の友人と会った中での肌感覚だ。)小さい事業ながらも一応社長夫人であった祖母との利害関係の付き合いはそんなものだった。

なぜかそんな祖母の電話に母は真面目に対応し、散々酷い言葉を言われ、いつも涙を流していた。このことがあり、両親はほとんどお酒を飲んで楽しむということがなかった。(ただ弱かったのもある)

年に何回かはこういうことがあったが、時には目に酷い痣を作ってうちに逃げてきたことすらある。
両親は祖母のそういった面を緩やかに伝えてくる程度だったので、アルコール依存症という病名がつくようなものであると、そんな状況でも深刻に捉えることが出来なかった。当時は小学生でお酒というものもよくわからず、お酒は人によってはこんなものなのだろうとすら思い込んでいたので、暴力を振るった祖父も振るわれた祖母も、自分の中で結び付かなかったように思う。
ある時、普段「いい子だね、賢い子だね。」と言う口が私を「バカ」だと罵倒した。電話越しに初めてそう言われた私は、もちろん傷つきはしたが、そのシンプルすぎる祖母の本音に妙に納得していた。いつもは祖母の中のイマジナリー孫に存在を消される現実の孫だと思っていたが、やはり祖母は私をちゃんと見ていたのだなと思った。祖母にとっては微妙に幼児返りのようなただの罵倒だったのかもしれないが、私にとっては馬鹿な自分の存在を認識してもらったような気持ちにもなった。例え馬鹿でも存在していいと言われたのは嬉しい。

今まで何度も泥酔した電話があったのに、私がその電話を取ったのはこの一回だけだった。代わりに未然に防いできた母が泣いてきたのだ。

そんな祖母は父にとっては実母であり、甘え方を知らない父は祖母に対し辛くあたる反面、誰よりも祖母を心配していた。
営業職だったため、ほぼ毎日外回りの時間には祖父母の家に顔を出し、月に一度は家族全員で訪れるようにしていた。祖父母との交流は一定時間以上いるとだいたい揉めて帰ってくるので(父が一方的に癇癪を起こす)、とても苦痛な時間だった。毎度お決まりのパターンだったので、あまりに不毛すぎてこっちが癇癪起こしたいわと思うほどだった。しかしそれでも父は交流をやめなかった。
酔っ払った時とも関係なく電話も頻繁にかかってくるため、祖母とのコミュニケーションは私の生活において避けようのない恒例行事なのであった。

避けられないならば祖母との時間をどう有意義に過ごすか。ということは当面の課題となった。祖母となぜ会話が上手くいかないのか、なぜ話を聞いてもらえないのかずっと悩み続けた。
祖母に唯一話を聞いてもらえた体験は、小学3年生の時アルマゲドンを観た後、感受性が暴走し号泣しながら電話をかけたときくらいだ。あまりに私の様子がおかしかったのか、話を聞いてくれた気がする。

中学生の頃よく遊びに行っていた友人の家は祖父母と同居しており、些細な日常会話をしているのをよく聞いた。それすら成立させられなかった私は、それをとても羨ましく思った。
この頃から、祖母は私のことをよく知らないから、何を話していいのかわからないんだろうなと思い始めた。
とにかく相互理解が足りていないと解っていたので、同居できたら等身大の自分を知ってもらえて解決するかなぁなんて思っていた。
しかし父や母と祖母の関係を見ていると、それができないということは明らかだった。

高校生になり、強い自我を会得した私は、できる限り祖母との関係改善を試みるようになった。
祖母の好きなもの、嫌いなものをとにかく質問した。ただその時、食べ物関係の質問は戦争体験者にとっては地雷だということも知った。食べることも難しかったから、好き嫌いしてる場合じゃなっかったという答えが多々あったのだが、おそらく祖母は答えることが面倒・思いつかなかったものに関しては何でもそれで片付けようとしていた。
だけど祖母の好物がツブ貝とだということは寿司屋に行くたび本人から聞かされていたので知っていた。
そんな質問のほとんどはプロフィール帳に書いてあるような内容で、パーソナルなことに踏み込んだ質問ができなかったことを今は悔しく思う。

次に祖母との関係を改めて大きく見直すきっかけとなったのは大学一年生の時だ。

友人と、いつまで一緒にいれるのかわからない家族との後悔のない時間の過ごし方を話し合っていた。祖父の認知症が悪化し始め、このままでは後悔することが目に見えていたので家族で一緒に絵を描くということをしてみた。意識して作らなければ思い出を残せないということもある。

やったこととしては、ペットの写真を見ながら一緒に一本のペンを握って絵を描くというものだ。手を動かす感覚としてはコックリさんのペンバージョンで、相手の手の力がモロに伝わってくる。
お互いが同じ絵を描こうとするので、どこから手を動かすのか、それぞれ描きたい場所の違いで力が反発する瞬間がなんとも言えない楽しさなのだ。
比喩ではなく手に取るように相手の意思が伝わってくるので、それが強引だと思わず笑ってしまう。これは家族にとってとてもいい体験になった。

意識的に家族と向き合うようになってからは、家族全員で過ごす時間が苦痛じゃなくなってきたように思う。

次のきっかけは祖父が亡くなった後、祖母をうちで引き取ることになった時だ。

祖母がうちで暮らすにあたり家を取り壊すことになった。物を捨てない祖父母の家はたくさんの物で溢れかえっていた。
物心ついた時には、祖母の家はすでに常時散らかっていた。家事や掃除を一生懸命にやる印象が無かった。ちなみに祖母の手料理は一度しか食べたことがない。
その年の夏の帰省は共働きの両親に代わり、荒れ果てた家の中から祖母の服や大事にしていたものを回収するミッションが課された。
服を集めるために箪笥や押し入れを漁ると、信じられない場所から次々と一升瓶やおつまみが現れた。この頃には大分症状も治まっていたので、あまり考えないようにしたかったが、やはり本物のアル中だったのだなと悟った。

両親にその話をすると、家族は酒屋が来ることを防いでいたが、商売人が頼みを断るわけもなく、祖母に秘密裏に酒を売りに来ていたそうだ。しかも祖母の性格を利用して期限切れのおつまみを大量に売りつけていたらしく、この件についてはかなり怒りが湧いた。

祖母を引き取った時は大学生で一人暮らしをしていたので、帰省のタイミングでしか会わなくなったが、この頃からよく会話できるようになった。
祖母の認知症は進んでいるはずなのに、以前よりスムーズに日常会話をし、笑い合い、ご飯の時は大きな唐揚げを取り合った。
今まで考えていた、祖母との普通の日常を手に入れたのだった。

認知症で祖母の本来の人格が剥き出しになった。祖母の素はとにかく優しく繊細で、ユーモアがあり、よく笑い、芸術を愛していた。
人の悪口ではなく自分自身の話をするようになり、人の話をよく聞くようになった。今まで祖母を濁らせていたものが取っ払われたように思えた。
認知症なので、時に攻撃的になることはもちろんあったが、泥酔していた頃のものとはまた違うように思えた。

祖母の認知症改善になればと、いろんなアプローチをした。当時通っていたネイリストさんが介護施設にネイルをしに行くと言う話を聞いて、いい刺激になりそうだなと思い帰省のたびに祖母のネイルをした。祖母はとても喜んでくれた。着ていく服やアクセサリーを選ばせたり、いろんな質問をし、話を聞いた。友達を実家に呼んでは紹介した。すぐに出来そうな活動を勧めたり、自分の好きなものを伝えて共有した。いろんなところに出かけた。
交流が進んでいく中で、祖母がしていた頓珍漢な褒め方は、全部祖母が言って欲しかったことなのだなということにも気がついたりもした。

祖母は元々それなりに裕福な家庭に育った。5人兄弟で、戦争中に仲の良かったすぐ上の姉を亡くしている。勉学も運動も出来が良かったというその姉の話は、おそらく祖母の中で大きなコンプレックスにもなっており、よく話す話の一つだ。部活は卓球をしており、県大会に出るくらい頑張っていた。音楽系の学校に進学をしたかったらしいが叶わなかった。歌を歌うのが好きだったようだが、口ずさむ程度のものですらあまり聞いたことがない。私が生まれる前は父母を含めカラオケにも行っていたらしい。大人になってからの習い事はテニスと、布で造花を作る教室に行っていた。知らないだけで他にも色々やっていたと思う。今もうちで使っている生花の道具は全て祖母のものだ。品のいいものに強い憧れを抱いていた。祖母の世間知らずな面も、金遣いや理想と現実とのギャップに拍車をかけていたのだと思う。
祖母は記憶力がよく、特に道を覚えるのは得意だった。体力もあり、杖をつくより早く歩いた。

思い返せば、家族と遠く離れた土地に住み、近所の親族からのイジメを耐え抜き、家事の他に祖父の事業を支え、気性の荒い男兄弟3人を育て上げた苦労は、元々繊細な気質を持つ祖母を濁らせるには十分な要素であった。
話を聞かないのも、話を聞いてくれる相手がいなかったからで、頼れる人もおらず、治療を受ける暇もなく、家族のストレスや家事を一手に引き受けていたという状況を考えると苦しく思った。一番側にいる家族がそもそもの原因を誰も解決しようとしないところも、悔しくて腹が立ったがそれが出来なかったのは私も同じだった。

デイサービスに通い始めた。外では相変わらず愛想がよく、職員さんからはよく愛されていた。しかし楽しい反面、避けられない人付き合いが始まり、迎えを嫌がる日は疲れてる時なのだなということも解ってきた。気を使いすぎるので、本来は人と会わずに休むことが必要なタイプだと思う。
デイサービスでの話では「先生の話を聞く、言われた通りにやる」という言葉をよく聞いた。職員さんのことを先生だと思って、認めてもらおうといい子であろうとする祖母はとても素直な子供のように思えたし、祖母をそのようにしてきた環境を悲しくも思った。

祖母はストレスが溜まると、落語のように一人何役もの演劇を始める。ひどい時それは何十分と行われた。
それをやる原因は予想がつくし、その間に誰と話してるの?と話かけると笑顔で「しーー。」というので、私が聞いていて、見ていることも知っていてやっている。
内容を聞いてみれば、だいたいは父にきつく当たられていることへのストレスへの対処だということがわかった。以前とは違い一緒に暮らしていることで、我々家族との対人関係が続く中、お酒に頼ることが出来なくなったのだから、こういった形でストレスを発散する術を身につけたのだなと思った。祖母のやること、言う事には明確な理由があるとわかるので、その行動を全く不審に思わなかった。

しかし父と祖母の介護を両方しなければならなかった母にとって、認知症の症状を直に受けることは限界であったし、父も優しく接したくても自分の病気への恐怖と苦しみで、実母である祖母にストレスをぶつけてしまうことに限界を感じていた。なにより祖母の生活も精神も父によって脅かされていた。
祖母を施設に入れることになった。家に祖母を見に来た職員は、こんなに症状がひどい人はなかなかいないと言ったが、私には信じられないような気分だった。

父が病状で苦しんでる時はそれを察し、自分の部屋にこもって邪魔にならないよう静かにするのだ。苦しむ父を心配してお腹を壊すほど息子を思っていた。私が帰ってくるたび話した内容や、私に関する情報を確実に更新している。一人劇はストレスの吐口としてやっているだけであって、周りや状況を認識していないわけではないのだ。
たまに帰って話す自分にとってはそうだとしても、一緒に生活する家族にとっては負担が大きすぎた。

父が亡くなったのはコロナ禍のことだった。マスクをして葬儀に出た。施設もコロナで面会ができなかったし、あまり帰れていなかったので1年は会ってなかったが、久々に会えた祖母はマスクをしていても誰が誰なのかよく解っていた。家族以外の知り合いにも声をかけ、名前を呼び、久しぶりと話しかけていた。父が亡くなったことを理解していた。

父が亡くなった日、亡くなった時間に、祖母がベットの上に立ち尽くしていたという話を職員さんから聞いて驚いた。
祖母にはおそらくスピリチュアルな面がある。それも祖母という人を語る上で欠かせない面の一つだなと捉えている。長いこと祖母の性格には大雑把な印象しかなかったのだが、実のところは繊細で鋭い感覚がある。

昔姉と大きな火の玉を見たという話を聞いたことがあった。祖父が亡くなった時も祖母と一緒に寝ていると、祖母がしきりに「怖いよ、怖いよ」と魘されていて、突然センサーライトが光ったこともあった。不思議だ。

その後コロナ禍に面会に行った時もまだ覚えていてくれた。面会は窓ごしに会うことしかできなくなり、コロナ以来その窓すら閉められている。
「窓を開けてやってくれ」と言う祖母を見て、手も握ってあげることが出来ないことに胸が痛んだ。

今は自然と祖母に会いたいと思えるような関係性になれたことがとても嬉しい。祖母の笑顔を見ると元気になる。
祖母の純粋さに触れるたび、孫だというだけで愛されていたことに気がついた。なんて幸せなことなんだろう。
もしもう孫だとわかられてなくても、会いに行くだけでおばあちゃんにとって何らかの刺激になるのなら全然構わない。
祖母が元気でいてくれるので、毎日を安心して過ごすことができることに感謝したい。
母は100歳の誕生日にはケーキを手作りしてあげたいらしい。甘いものが大好きな祖母に、母はよくお菓子の差し入れをしてくれる。
どうかこれからもずっと元気で。

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