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働くことは必要悪?それとも自己実現?

あなたにとって、働くこととはどういう意味を持っているでしょうか?

ゼミ生に、こう質問すると多くの意見がでてきます。お金のため、生活のため、家族のため、豊かになるため、概ね生活を支える消費のためという意見、自己の成長、人のため、社会のためなど、の意見もあります。

これを大ざっぱにまとめると、二つの内容があります。

一つは、労働の目的を労働そのものに求めず、たとえば消費生活の維持といった労働以外のものに求め、その目的のために労働は、仕方なくやるもの、必要悪、苦痛をもたらすもの、と、いった考えです。

二つ目は、労働の目的を労働そのものと考え、達成感、充実感、成長感といったもの、つまり自己実現であり、やり甲斐があること、その意味で労働とは楽しいことを意味するという考えです。

前者を「苦」、後者を「楽」(ただし、eazyとかlightとかではなく、やり甲斐があって楽しいという意味合いで)と呼びましょう。 では、そう呼んだ労働の性質とは、「苦」なのでしょうか、それとも「楽」なのでしょうか?

労働は「苦」か「楽」か?
それぞれに与する意見は、色々な哲学者たちによって、それぞれの立場から賛否が主張されてきました。


ヘーゲルの労働観

ベルリンのフンボルト大学の中庭にある若きヘーゲル像

その中でも、一見、折衷案にみえながら、奥深いのがドイツの哲学者、ヘーゲルの立場です。

主体である労働者が労働という行為を通じて、自らを自らの外に客体として生み出します。これを外化または対象化といいますが、外化することとは自己実現することであり、したがって「楽」なわけです。

ドイツ語では、外化(Entäußerung)と実現(Äußerung)は、どちらもaus(〜から外へ)という語から派生していますから、よく似ていますね。

ところが、実現した対象化された自己は、自己そのものではなく、主体にとっては不十分な、限界を持ったものですから、主体と対象化された主体との間には、よそよそしい関係=疎外が生じます。疎外は主体を苦悩させます。

ヘーゲルは、だから、労働には「楽」があるし「苦」もあるんだよって二つの対立する側面が単に並列的に存在していると折衷案をいっているのではありません。

この対立する二つの要素は矛盾し、主体を主体のままでいることを許さないエネルギーを持ち、主体はこの中で、これまでのままの主体であることを超えるために自己を発展させることになります。

このあたりが、弁証法の大家であるヘーゲルらしさです。
そして、主体は労働をしつつまた自己実現と疎外を繰り返しながら成長するするという、けっこう明るいヘーゲルの労働観。それは、混沌としたイデーが自己展開をし、次々と自己の発展とその発展を乗り越えていく、そんなへーゲルの哲学が圧縮されたものだと言えます。

ちょっと抽象的でイメージしにくいですか? 例えば、芸術家の労働のような労働をヘーゲルはイメージしているのだと思います。

交響曲の第1番を生み出した作曲家は、やったーと、大いなる充実感を得るでしょう。しかし、時間が経てば、その作曲をした時点の自分を表している、当時の自分そのものに限界を感じ、批判し、否定したくなってくるでしょう。この苦悩の中で、作曲家は、交響曲第2番を生み出そうとするのです。

だから、「楽」と「苦」とからなる労働の過程は、労働者の自己成長、自己発展をおこなうプロセスの重要な要素であることになります。だから、全体を見れば、ヘーゲルの労働観はとっても明るいということになります。

マルクスによる批判

ベルリンのアレキサンダープラッツのマルクス像(座像)とエンゲルス像(立像)

唯物論からの人間と労働の見方

この明るいヘーゲルに対して、マルクスはそれでは不十分だとして批判します。

マルクスは、ヘーゲルの観念論(神や精霊や絶対的精神といった神秘的なものが、この世の本源だとする考え)に対して、人間は自然の中で進化してきた生物であると捉えます。したがって人間も本来自然の一部なのだが、人間は自然に向かい合って、目的をもって意志によって自然を加工する。この精神活動と一体となって自然を加工して、労働生産物を作り出す、この目的性、意識性が人間の労働の特徴だと捉えます。そして、その労働を通じて、人間は身体的・精神的初能力を発達させたのだ、と。

マルクスもヘーゲルと同じく、労働は自己を発達させる重要な要素であると、考えます。この側面で、労働は人間を発達させ、進化させる、明るい行為です。だから、人間は労働するために生まれてきた生物であると考えます。(これは円熟したマルクスの『資本論』での立場です。)

したがって、神や絶対的精神といった神秘的なものではなく、物質として形成され進化してきた自然として人間はその過程での形質を遺伝させているわけですが、その形質の中に以上のような過程で形成されてきた人間と人間の労働の在り方が存在することになります。 労働という行為と人間の発達・進化の関係は、相互に関係し合うものとして弁証法的に考えられていますね。

疎外された労働

若いマルクスの原稿に『経済学哲学手稿』という、マルクスの生前には出版されなかった原稿があります。

ここで、まず、マルクスが主張するのは、労働について考察するのなら、ヘーゲルのような理想化された芸術労働といった労働からではなく、目の前の現実の労働からスタートすべきだということです。

私たちの目の前には、長時間、低賃金、過密、過重、ハラスメント、不衛生その他の苦痛を与え続けているブラックな労働があります。若いマルクスの目の前にある、資本主義的社会関係が浸透した19世紀のヨーロッパの労働の平均的な姿も、悲惨なものでした。

若いマルクスは、新しい時代である資本主義社会とは何かということを、まだ、まだ充分に理論的に考察出来ていない中ですが、そのような現状の労働を考察します。

まず、マルクスが指摘するのは、私的所有制度の社会の下では、労働者が働いて作ったもの(労働生産物)が、働いた人のものではなく、働かせた人のものになるという事実です。 そのことによって、生産物がそれを作り出した労働者とがよそよそしい関係になってしまいます。

それは、ものを作り出す労働者の労働から労働者自身の目的性が奪われ、他人の目的に従って労働することになってしまうからです。これを対象剥離(目的喪失)だとマルクスは考えます。

人間労働は、形成された遺伝形質によって合目的的意識的活動であるときに、充実感、達成感、楽しさなどを感じることができるのですが(この辺りは円熟したマルクスが考えていることです)、目的を奪われてしまった労働は、労働者に苦痛や苦悩を与えることになります。


疎外って言い換えるとこういうこと

ところで、みなさんは、ショッピングは好きですか?楽しいですよね。 でも、お父さんやお母さんに「お使いに行って」と言われたら、途端にショッピングは嫌なものになった経験がありませんか?同じものを買うにせよです。

これは何かと言うと、ショッピングの目的が自分のものから、お父さんやお母さんの目的に変わったからです。他人の目的に合わせて買い物をするのですから、その行為からは自分の目的が剥離しているわけです。

勉強についても、同じような体験がありますね。皆さんは、小学校に入ったばかりのころは、先生にこの本読んで下さいと言われたら、率先して、争うように手を挙げていませんでしたか? ところが、高学年になっていき、中学、高校、大学と年を重ねていくと、だれも手を挙げたがらなくなります。勉強するということも、だんだん、苦行めいてきます。

こうなる理由の一つは、勉強への保護者の介入にあるのではないかと思います。

お父さん、お母さんは、皆さんが小学校の3、4年ごろになって、少数や分数などで少し困り始めた頃、心配になって皆さんの勉強に口を挟むようになります。 宿題はしたの?勉強ははかどっているの?遊んでないで!貴方は、もっと勉強できると思うよ!などなど色々です。お父さん、お母さんは、競争社会の厳しさを知っていますから、よけいそうなりがちなんですね。

そうすると、面白いことを知りたいから楽しかった勉強が、競争社会に生き残るため、成績を上げるため、という親の目的にしたがう行為になってしまいます。

本を読むのは好きだけど、読書感想文を強制されると、いやになっちゃうってこともあります。本を読んでもらおうというきっかけづくりで与えられた課題が、本来の目的と逆のものになってしまうということもあるのです。

だから、子どもが勉強するようになるためには、勉強の面白さを伝えて、あとは子どもの興味が湧くのを待てばよいのです。読書も、自分が読んだ本が如何に面白かったかを伝えて、あとは子どもの興味が湧くのを待ちましょう。

フィンランドの子ども達の学力が世界一になった理由は、宿題を無くし、受験戦争を無くし、勉強したい気持ちが自然に湧くように、教育の在り方を転換したからです。

労働は非人間的な行為、必要悪とみなされる

話しを元にもどすと、他人の目的の為の労働は、労働者を苦悩させます。目的が奪われてしまうと、労働者の目的は、賃金、および賃金を使う生活部分か、休息、睡眠、食事、その他の生理的な部分や労働時間外の娯楽を享受するための手段として位置づけられるようになります。

そうすると、働くことは人間の目的ではなくなり、働く以外の生活のための手段になります。苦悩を与える労働は、やりたくはないけどやらねばならないもの、生活のための手段、必要悪とみなされるようになります。 本来人間的な行為であった労働は、「馬車馬のように働く」といったように、動物的な行為として意識され、労働以外の生活(これをマルクスは他の動物でもできる行為だと言って、生活の様式にある文化的な要素については度外視していると思いますが)が、動物的なものを人間的な行為として意識されるようになる、つまり価値感が逆転してしまうと言います。

これは、本来の人間らしさが現在の人間にとってよそよそしいもの、あるいは逆に、本来の人間らしい本章から現在の人間がよそよそしい存在となっていることを意味するのだ(類的本性からの疎外)、と言うのです。

このような情況を生み出すのは、そもそも私有財産制の下で、人々が共通の利益を保全し合う関係ではなく、人々がお互いによそよそしく、排除し合う関係になっているからだと、若いマルクスは考えます。

そして、この社会の下では、労働者は、そのような形で疎外された労働に従事し、自分を苦しめる関係に置かれるだけでは無く、その関係を作り出した大本である、私有財産をますます労働させる人のために作り出し、自分や他の多くの労働者、自分の子孫をそれに従わせる富を増大させなければなりません。

これは、自らが自らを苦しめる原因を増加させる行為であり、労働者にとっては自己疎外であるということになります。 この情況を変革しようとする労働者の社会的反抗は、色々な形で必然的に形成されることになります。

その具体的な要因は経済法則の中から発見されますが、若いマルクスは、自分の主張を経済学の研究を通じて、確立していきます。

近代労働観の分裂

こうして、労働観は、二つの現実に基づいて分裂します。

一つは、人間の遺伝形質として、労働を自己実現と判断し、充実感、達成感、楽しさといった感情をおこさせる、心の構造と反応が遺伝的に作られていることです。これが一つ目の現実です。

二つめは、現実の労働と、もたらす苦悩です。 近代資本主義社会が発達し、ブラックな雇用関係に生きざるをえなくなったとき、労働は非人間的な行為になりました。だから、今も人間らしい労働の復権が主張されているわけです。

この二つの現実が労働観を分裂させています。私たちの心は、やり甲斐のある仕事に就きたいという気持ちと、できるなら高賃金、短時間、ハードではなく、ハラスメントもない、仕事ってないかなあ、という気持ちの間で揺れ動くのです。

では、今日の労働の在り方を決定している要因と、その要因を取り除くことで理想的な労働環境をつくっていく条件はあるのでしょうか? それについては、またの機会に。

※ このテキストは、2021年度におこなった講義内容に基づいて作成した社会科学研究室ソシラボのwebページを基に、多少修正したものです。

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