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元気が出ない日

今日は、日が暮れてくるくらいから元気がなくなってきた

夕方に、ある木彫りアーティストの人の制作風景の動画をYouTubeで見た。

大きくて、リアルでかわいい動物を彫るそのアーティストの動画を見ていて、「すごい! 動画もきれいだし癒される〜」と思っていたのに、段々と気持ちが沈んでいった

なんだかもやもやしてきて嫌な気分になってきた

あ〜自分は何かのプロフェッショナルでもないし、何か秀でたものがあるわけでもないと段々と落ち込んできたのだ。 

でもなんでプロフェッショナルでなくちゃいけないんだろう?プロフェッショナルにならなくたって、しあわせに生きられるとは思うのに

でも、プロフェッショナルとか職人みたいなのに憧れる自分がいる

何か始めても、飽きっぽくて長続きしないことが多い。

今までで一番続いていることと言ったら、自然農の畑と苔が好きなことくらいだ

だからといってそれが人よりできるとか努力できているとかではない。


プロがすごい、すばらしい、存在意義があるっていつのまにかどこかで思わされているのかもしれない

テレビを見れば、何かしらのプロの人が出ていて、その人たちがすごい、誰かや何かの役に立っている、というふうに思える番組構成であることが多いような気がする。

私が子どもの頃に、学校とかに講演に来てくれる大人たちだってみんな何かのプロだ。警察官、和菓子職人、ヨガのインストラクター・・・「大人になったら何かのプロにならなくちゃ なりたい」って思わせる教育をされてきたような気もする。

本当になんでもない、町でフラフラしているおじさんが、「日々こんな生活をしています。」なんて講演に来てくれることもなかったし。

本当は、誰もがただ生きているだけなんだろうけど、何かに秀でているか否か、どんな職業に就いているかどうか、そういうことで人を優れているとか劣っているとかって見る癖がついているのかもしれない。そういう尺度で見たら、自分は劣っているなぁって自然と考えて辛くなるのかもしれない。

それは、優生思想みたいなものにも遠からず繋がっているのかもしれない。人の役に立つ人しか生きている価値がないみたいなことを言う人と根本的には大きくは変わらないのかもとも思う。優生思想みたいなのは、すごく嫌いだし、怖いものだと思っているはずなのに、自分にだってそういうところがあるんじゃないか。

世の中になんとなく蔓延している、生きづらさみたいなのはそういうものからくるのかもしれない。

学校で働いていた頃、「あの人は仕事ができる、あの人はできない、使えない」という話をしている同僚の言葉を聞くのがすごく嫌だった。そういうのを聞くと、自分も影でこの人に言われているんじゃないか、と思うこともあったし、できる人でないと存在してはいけないと言っているようで、そういう言葉がすごく怖くて嫌だった。

心や体を壊して、休職していた経験のある先生のことを「あの人は“おココロ系”だからね〜」などと影で呼ぶ人はたくさんいた。精神的に弱いから気をつけた方がいいよ、みたいな感じだ。その言葉を聞いた時も同じように嫌な感じがした。そう言いながらも、そう呼ばれている先生と話したりするときに、そのことを知らず知らずの内に意識している自分もいた。「あぁこの人って病みやすい人なんだよなぁ」というように偏見の目みたいなのがあったと思う。

そういうのが嫌いだと言いながらも、自分もその人たちと大して変わりはしないのだ。

それでも、こういう空気感みたいなのが居心地が悪くて、息苦しくて苦手だった。できる自分であらねばならない、そうでなければここに存在してはいけない。みたいな感じだ。

だから、そういうことを言う人に対しては無意識の内に心の壁みたいなものを築いていたように思う。そういうことを言わないし、感じさせない先生に対しては気楽に関われていたというのもあったと思う。でも、職員室全体には、そういう空気感があったと思う。それが何より嫌だったのかもしれない。表向きには、結婚して引っ越すから退職するといっていたけれど、それが居心地が悪くて、辞めたところが大きいのかもしれない。

学校の子どもたちと過ごす時間は、すごくすごく好きだったし、今でもよく思い出しては、会いたいなぁとかもう二度と会えないのかもしれないと思うととてもさみしい気持ちになる。だから、時々辞めたことを後悔するような気持ちになる時がある。学校という組織に対する居心地の悪さに負けて、子どもたちと居る時間を捨てたとも言えるのかもしれない。

特別支援学校で働いていたことについて、「障がいのある子どもたちを助けたかったからなったんだよね、わかるよ。」と言われたことがあるが、実際には全くそんなことはない。寧ろ、自分が子どもたちに救われていたし、居場所を作ってもらっていた。子どもたちが笑ってくれたり、必要としてくれたりした時間があったから、自分はここにいていいんだなって思えていた。ただただ、子どもたちといる時間が好きだった。

子どもたちだって、社会的に見たら何かのプロではないのかもしれない。いわゆる「障害者」というものに分類されるのかもしれない。でも、生きている価値がないのかと言ったらそんなことはない。歴史を見ればあからさまにそう言われていた時代もあるし、今だって声を大にして言わないだけでそう考える人はいる。資本主義の社会では、生産性が大切だ。それがお金になるかどうか、だ。だから、そこに外れるものは邪魔だ、いない方がいいという考え方だ。私が、プロフェッショナルでなければならない、そうでない自分は劣っていて存在する価値がないんじゃないかと感じて落ち込むのには、そんな生産性を重要視するこの社会の空気があるように思う。

それがお金になるかどうか、という視点から見たら、学校の子どもたちもそうではない方に分類されるのかもしれない。でも、私にとってはなくてはならない存在で、ただそこにいてくれることでもたくさん救われた存在であることに間違いはない。

よく、「障がいのある子は何か一つのことに秀でている。」と言う人もいる。確かに、ものすごく絵がうまかったり、色づかいが独特で美しかったり、人を笑わせることが得意だったり、すごく純粋で誰からも愛されるような性格だったりする子もいた。でも、心を閉ざして人を寄せ付けようとしなかったり、人のことをすぐに悪く言ったりして純粋とは真逆と言えるような子や、暴力を振るう子、手先の不器用な子もいた。それでも、その子たちから教えてもらったことも多かった。どんな人も、ただそこに存在しているだけで、本当は周りの人に対して何かしらの影響を与えているのだと思う。それが、生産性という尺度でははかれないないだけのことなのかもしれない。

私も、何かのプロではないし、生産性があるかどうかと言われたらないと言えるのかもしれない。それでも、今この文章を書いていて、自分がただ生きていて存在しているだけでもどこかに影響を与えているのかもしれないと思えてきた。もっというと、死んでしまった人だって生きている人に対して影響を与えているくらいだ。


このnoteを書き始めたきっかけは、自分のためだ。自分が心の中に溜め込んでいるもやもやをこうやって誰かが見ているかもしれない場所に書き記すことで、自分の頭の中や心の中を少しずつでも整理して、すっきりとして、生きやすくなったらいいなあという思いからだ。

今日、最初に元気が出ないというところからスタートして、書いていく内に自分でも当初は思っていなかったところにも話が広がっていった。その結果、少し心が軽くなったような感じがしている。



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