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生きることが何より尊いとは思わないハナシ

こんばんは。ご無沙汰しています。
相変わらず反復性うつ病の治療中の未(ひつじ)です。

今回は2018年に亡くなった弟のお参りに来ていただいたお客様の言葉に思ったことを纏めていきます。

弟は19歳という若さで人生の幕を引きました。
自死でした。
普通高校からは一年遅れて大学受験生であった彼にとって、自死は突然ではなく、徐々に彼の根本的な自信や存在意義を考えさせられることがったのではないだろうかと、ほぼ丸4年が経った今でも私は想像することしかできません。
一度生前あまり気乗りしているようではない彼と話をしました。一度病院で専門家に相談してみてはどうかなぁ、という私のムチャ振りに、弟は苦笑いしながら『そういう(病院に行くような)性質の問題ではないと思うので大丈夫です』と答えて、ホッとしたのも束の間、この世を去りました。

弟のルーズリーフには
『自分はまともな人間ではないのでもう楽になりたいです』
とぼろぼろの字で書かれていました。
私は2ヶ月前の彼の言葉の意味を完全に履き違えていたのでした。
弟は専門家に診てもらうほどのことではないと考えていたのではなかった。
傷つきに傷ついて、根本的に自分を支えてくれる柱を見失っている状態だったのだと思います。

私が実家にいる時に勝手に入り浸っている和室に作っていただいた祭壇を見上げて起きる狂いそうな日々が四十九日を過ぎるまで続いていました。

実家で行われた葬儀でしたが、棺を運び込んだり、警察が現場検証に来てくださったりでどたばたしていたこともあり、数日後に町内会の方がお香典を持ってきてくださいましたが、傷心の父母に代わり対応した私も『突然のことだったので今はそっとしておいていただけないでしょうか』と伝えるのが精一杯でした。
班長さんにはせっかく寒い中お越しいただいたのに申し訳ないことをしたと反省しています。

弟が亡くなった2月から春先になり、通信制高校の教頭先生や担任の先生、そして科学部(なのかな?畑仕事も多かったみたいですが)の先生が卒業証書を持って来てくださいました。
特に部活の先生には弟が懸命に調べた研究結果の資料(同校の万年休学生である私には難しくてさっぱり分かりませんでしたが)なども持ってきてくださり、色々学校でのエピソードをお伺いすることができてありがたかったです。
本当にありがとうございました。

それから一年後、小学生の時の担任の先生と、弟の同級生の保護者の方お二人がいらしてくださいました。
担任の先生からはとても貴重なお話しを聞くことができました。
限られた大きさの立方体を作る授業で、他の子が方眼紙でスタンダードな立方体を作る中、弟は定められた範囲内でロボットのような見た目のものを作っていたそうです。
プログラミングもロボットの組み立ても好きな弟らしくて笑ってしまいました。
私は初耳だったのですが、私が無理に付き合わせたと思っていたポケモンの映画も実はとても楽しかったようで、学校で楽しそうに話してくれていたそうです。
そういわれれば、配信されたアルセウスを家でポケモンをプレイしていた時に好んで使っていました。
どちらかというと9歳年上の私のほうがポケモンオタクなので、てっきり一人で見に行くのが恥ずかしい姉に、わざわざ付き合って観に行ってくれたのだと思っていました。
担任の先生から聴けた、映画のエピソードもとても嬉しかった。内心泣きそうでした。

ただ、ずっとひっかかっていたことがあって。
それは同級生のお母様の、
「生きてるだけでなんて素晴らしいんでしょう!」
という言葉です。
私はその時は『この人は何をいっているんだろう?』としか思いませんでした。
もちろんそのお母様の価値観が世間一般で正しく、健康的で、まぶしいくらい尊いっ価値観だということは理性では分かっているのですが。

私は持病柄もあり、ひとくくりにそうは言えないのではないか、という気持ちが強いです。
あの世よりもこの世のほうが地獄に近いことなんて、環境次第ではざらにあると考えてしまう質なので。

私はなんだかんだ、死にたがりを抱えながらも幸いなことにこの歳まで出会った周りの方々に支えてもらいながら生きておりますが、まったく出会えない人生だったらとっくにこの世に未練はなかったと思います。

ひとえに周りの人が優しく、日本というある程度生活の補償をしてくれる世界的に見ればウルトラレアな国で育ち、その国から出て過ごさねばならない事態に陥ったことがないという幸運のおかげで生きています。

それでも「生きてるだけで素晴らしい」と言える健康さ、真っ当さは私には今でも眩しすぎるのです。

その方も、多くの困難を自力で乗り越えてその言葉に至ったのかと思います。
ですが、どうしても私には『生きていることが何より尊い』とは思えないのです。

だからといって『苦しかったら死に逃げて良いんだよ』というつもりも毛頭ありません。
自死だけでなく、大切な存在が亡くなるということ全般に云えることですが、多かれ少なかれ大切な存在を亡くす時、残された私たちは心の一部を亡くしているのではないかという気がします。
よっぽど天寿を全うした場合なら別なのかな、とも思いますが、それでも心の欠落は起こります。
弟を失った時、私はぼんやりと心理士さんに『なんだか右足をもがれたような感じです』
とお伝えしたのを覚えています。
もちろん痛みがあったわけではないのですが、あの時の欠落した感覚は今でも覚えています。
私自身、自分にとって『死に逃げる楽さ』と、家族を始め回りに与えるかもしれない『ショックと欠落感』を天秤にかけながらなんとか一線を踏み越えないように生きているのではないかと思います。

今、生きていることが辛いほど苦しい方。
人生に疲れてしまっている方。
不安な世界情勢も相まって、たくさんいらっしゃるのではないかと思います。

とりあえず深呼吸して、お水やお白湯を口に含んで、ゆっくり飲んでみてください。
上手に深呼吸できなくても大丈夫です。
深呼吸ができないほど苦しいのは、あなたがもがいている証拠だと思います。
布団に横になって、腕を交差させて両肩を交互にポンポンしてみてください。
甘いものや好きな食べ物が戸棚や冷蔵庫にあるのなら、モグモグタイムにして食べちゃいましょう。

まずは『死にたいほど追い詰めてくること』から逃げてみたらいいのではないかな?と思います。
急がなくて誰もが死を避けて通ることはできないから。

ふらふらしすぎている私と、今日もあいまいな境目であなたもなんとか留まってくれたら、私は心強いです。

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