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第十七話 空っぽの館

   七

 ヒマリさんの館は、その壁面や庭こそ荒れているけれど、玄関の扉をくぐるとすぐに真っ赤な絨毯が敷かれていて、古い暖炉や柱時計、貝殻のランプ、ソファといった、彼女の大切なコレクションが温かく出迎えてくれた。一階には素敵な居間があって、貴重なレコードと人形と、きらきらしいシャンデリアが輝いていた。

 今はもう、なにもない。剥き出しの木床、無骨な石壁、ランプの外された枠……そういったものが薄暗い廃屋の中でひっそりと息を潜めている。僕の足音が、響く。響いて、跳ね返ってくる。

 何もない壁に触れ、乾いた空気を吸い込みながら、ゆっくりと歩いた。がらんとした廊下に、黒髪の背中が薄らと見える。「ここはサロンよ」――綺麗な、澄んだ声で、僕に自慢のアンティークを見せてくれる。だけど瞬きすると、部屋は殺風景で何もなく、彼女の幻影も消え失せていた。

 からっぽの部屋をひとつひとつ目にするたびに、現実をつきつけられる。必死にしがみついている脳内の夢想が、無慈悲に塗り替えられていく。それはロリィタを脱いで仮面を外し、自宅に帰るときのような荒涼とした感覚に似ていた。魔法が解けたのだ。主人を失った城は城たらしめる魔法を失い、元の荒廃した館に戻ってしまったのだ。

 じわじわと、胸の内に絶望が染みこんでくる。

 螺旋階段の絨毯も取り払われていた。スニーカーの足を乗せるたびに、きしきし、古い木の段が軋んで沈み込みそうになる。視界の端に一瞬、踊り場を軽やかに曲がっていくフリルとレースの後ろ姿が見えた気がしたけれど、もちろんこれも、幻想だ。

 そして、二階。ここも打ち棄てられたように、なにもなかった。

 二階の変貌は一階よりもさらに僕の心を痛めつけた。衣装部屋――初めてアリスになった場所。アリスの仮面を被った僕を、彼女は満面の笑みで抱きしめてくれた。今でもその手の感触が、肩に、背中に、甦る。

 どこを見たって同じなのはわかっているのに、まるでわざと傷つきたがっているみたいに、僕は操られるようにして部屋を出て、図書室に向かった。

 壁一面の本棚は、そのままだった。ただぎっしりと並んでいた本が消えている。かつては部屋の中央に深緑の絨毯と座椅子があったが、今は硬く冷たい床ばかりが広がっていた。そこに寝転がって仰向けになり、くすんだ天井をぼんやりと眺めた。

 目を閉じれば、瞼に浮かぶ。容易に思い出せる。一面の星空を。人工的なプラネタリウムだけど、外で見る空より何倍も美しかった。僕たちは座椅子を並べ、肩を寄せ合い、美しい音楽と星空の鑑賞者になって、同じ美を共有していた。ふいに手を伸ばせば、すぐ隣に細く冷たい手があった……

 指先が硬い床を引っ掻いて、僕は現実に引き戻される。真っ昼間の陽気が窓から差し込んで図書室を白く照らしているのが、たまらなく憂鬱だった。部屋が穢されているような気さえした。でも、カーテンを閉じたくとも取り払われているので閉じられない。

 よろよろと立ち上がって、部屋を出る。最後――僕と彼女の最後の思い出の部屋が、その先にある。

 金の貝殻を模した取っ手。特別な部屋だ。ここは、アリスでなければ、決して入るのを許されなかった。

 神聖な彼女の寝室の扉を、意を決して開く。白と金と薄緑でできた砂糖菓子のようなあの部屋は、質素な木床と石壁の、硬く無機質な空間に変わり果てていた。

 数歩、進む。僕が初めて彼女をエスコートしたあのテーブルも、一緒に寝転がった大きな白いベッドも、立派なイーゼルも、初めから何も無かったかのように綺麗になくなっている。何か少しでも痕跡が残ってないか、未練がましく何度も何度も部屋の中をぐるぐると歩き回ったけれど、かつての面影をかろうじて残しているのは、奥の出窓の窓台だけだった。彼女がいつも足を伸ばしてくつろいでいた、お気に入りの場所だ。

 僕は窓台にあがり、靴を脱いで足を伸ばした。彼女がしていたように、壁に背中をつけて、窓の向こうの景色を眺める。

 道路を挟んで、僕の家が見える。正月が開け、今日はまだ休日だ。母はまた僕を外出禁止にしようとしたけれど、父が反対した。ヒマリさんとの件は僕を縛りつけすぎたせいで起こったんじゃないか、と言ったのだ。さすがの母も、父のきっぱりした物言いには勝てなかったみたいだ。

 ヒマリさんのいた場所に、ヒマリさんと同じように座っているのは、まったく不思議な気分だった。頭の中から指先にかけて、ふわふわと現実味のない感覚に支配されている。ここ数日、ずっとそうだった。どこで何をしていても、ガラス越しに景色を眺めているみたいに現実感がなかった。

 彼女がいなくなったのに。廃墟だと思っていた館は素晴らしいお城だったことも、それが瞬く間に元の廃墟に戻ってしまったことも、誰ひとり知らなくて、気にも留めていない。家の中が、世界が、何事もなかったように平然と時を刻んでいるのが信じられなかった。

 冷えたガラスを通して、眩しい日差しが頬を照らしてくる。手を伸ばし、錠を下ろして窓を観音開きに開け放つ。冷たい風が舞い込んできて、上げられたままの僕の手を取った。

 このまま、飛んでいけないだろうか。ヒマリさんのいる場所まで。どこにいるのかわからないけれど、届かないだろうか。ふわふわと、風に流れて……

「おい!」

 突如、鋭い叱声がこだまして、僕はびくりと体を硬直させた。

「何やってんだよ馬鹿野郎!」

 僕の体は、まさに窓から落下しようと思い切り身を乗り出しているところだった。慌てて壁に手をつき振り返ると、開け放たれた部屋の戸口に仁王立ちする人影があった。僕より一回りも二回りも大きな男子の姿……

「慎二」開いた口が塞がらない。「どうして、ここに……」

「おまえこそなんでこんなとこにいるんだ。んで、なんで落ちようとしてんだよ」
「別に、落ちようなんて」
「嘘つけ」

 慎二が大股でずかずかと部屋に侵入してくる。彼の羽織ったスカジャンやズボンがしゃかしゃかと音を立てるのを聞いた瞬間、僕は反射的に叫んでいた。

「待って! 止まって! 止まってよ!」彼の侵入を制止するように腕を突き出す。「入るな! ここに、入ってくるな!」
「な、なんだよ」

 珍しく、僕の剣幕に押されて慎二が立ち止まる。僕は窓台から飛び降りて、慎二につかみかかっていた。

「はやく――出て行けよ――はやく――」
「待て、待てって、なんなんだよ!」

 面食らっていた慎二がようやく抵抗しかけたころには、僕はもう、彼の肩を無理矢理部屋の外へ押し出していた。そのままもつれ合うようにして廊下に倒れ込む。

「いって……」慎二は呻きつつも素早く起き上がり、僕の胸ぐらをつかんだ。
「てめえ、やったな。ケンジャのくせに」

 彼の細い一重の目が獰猛な光を帯びている。僕の体は瞬時に縮み上がった。だけど――だけど、これだけは、譲れない。

「この部屋は、特別なんだ……お願いだから……」

 喉が震えて、最後は声にならなかった。視界が滲む。せっかく堪えていたのに、いつの間にか涙が溢れ出していた。

「おい……」僕の胸ぐらを掴んだまま、慎二はおろおろと戸惑っている。
「なんだよ、どうしたってんだよ」

 自分を虐める対象の前で涙を流すなんて、弱みをみせるなんて、絶対にしてはならない行為だった。だけど、すり切れた僕の心は冷静さを失って、もう元に戻れなかった。僕は廊下に尻餅をついたまま、ぼろぼろと涙を流し続けていた。

 気持ちがおさまるまで、僕は廊下の壁にもたれて膝を抱えていた。信じられないことに、慎二も未だ横にいて、僕と同じように座り込んでいる。

「ここさ、人、いたんだな」

 ぽつり、慎二が声を発した。呟く声は、がらんとした廊下の向こうまで響くようだった。

「お化け屋敷、じゃなかったんだな」
「……うん」

 服の袖で涙を拭いながら僕はうなずく。

「あの肝試しの日、君が見たのは、生きた女のひとだよ」
「金髪の、ゴスロリだろ」
「ゴスロリじゃないよ。あれはロリィタっていうんだ」
「ロリータ? ロリコンのロリ?」
「違うよ。いや、由来は知らないけど、違う。服のジャンル」
「へえ」

 慎二が僕を見る。いつもの、からかうような目つきで。

「詳しいじゃん」
「……教えてもらったから」
「その人に?」
「うん」
「仲、良かったんだな」

 そう、仲が、よかったんだ。
 この館の中で、鳥籠に囚われた駒鳥のように、いつも一緒に、いた。
 だけど――

「いいよな、向かいに住んでる奴は」

 唐突に、慎二が天を仰ぐ。

「お向かいの特権だよな。どうやって近づいた?」

 彼の言いたいことがわからず、僕は当惑する。

「どうやっても何も。趣味が合ったとしか――」
「嘘つけ。おまえの根暗趣味に合う奴なんかいるもんか」
「嘘じゃないよ。あの人は、君が馬鹿にする本が好きで、君がまともに見聞きしない芸術が好きなんだ」

 慎二の目つきがたちまち暗く翳った。「そうかよ」と、靴の先に目線を落とす。彼にしては珍しいそのしおらしさに、なんとなく妙な胸騒ぎがした。

「もしかして」おそるおそる、口にする。
「慎二も、あの人が好きなの」
「はあ?」

 慎二は見るからに動揺していた。僕を見、関係ない壁紙の模様を見、ごくりと唾を呑む。

「そういうおまえは、どうなんだよ。その人がいなくなったあとも未練がましくこんなとこに来て、『入るな! ここに、入ってくるな!』」
「うるさい!」

 しばらく、互いの目を睨み合っていた。慎二の頬は赤い。僕も、頬がかっと熱を帯びている。

「……僕は、あの人が好きだよ」と声を絞り出して、慎二を睨む。「だからここに来たんだ。君もそうなの?」
「馬鹿野郎、違うって言ってんだろ」
「顔が赤いし、思いっきり焦ってるじゃない」
「ああもう、うるせえな! 俺は……」

 慎二が、すっと目を逸らした。威勢を失った犬みたいにおとなしく俯く。

「なあ、おまえ、ここの人と仲良かったんだよな。その……家に出入りしてたんだよな」
「うん」
「もうひとり……いなかったか」
「もうひとり?」

 ヒマリさんは、独り暮らしだ。

「ほら、同じような、その、ロリータってやつ、着てさ。白い髪で……」

 ひたひたと、背筋に嫌な予感が這い上る。
 ヒマリさんと一緒にいる、白い髪のロリィタなんて、一人しか浮かばない。

「……いたよ」

 やっと、声を発した。

「名前は?」
「アリス。っていうんだ」
「そうか」

 慎二は、ぼんやりと靴の先を見つめたまま、「アリスか……」と呟く。まるで大切な人の名前を胸に刻むように、噛み締めている。

「その人も、一緒に、引っ越したんだよな」
「そうだね。もう、いないよ」

 慎二は、ついさっきまで僕が直面していた絶望をそのまま目の当たりにしたような顔をしていた。そんな馬鹿な……到底信じ難いことだった。彼が、まさか……ロリィタを着た僕に惚れているなんて!

「あの日……クリスマスの日、うちの坂の前にいたのは、アリスに会いたかったからなの」
「ああ」半ば自棄になったように慎二はうなずく。

「俺、一回、公園で見たんだ。二人して前を通りかかって……その時一瞬、目が合ったんだよ。あんな服装してるやつなんて正直やばいのばっかだと思ってたし、今でもまあ、その考えはあるけど、アリスって子だけは違ったんだ。めっちゃかわいかった。俺、こんなの初めてでさ……」

 慎二の言葉は真剣そのものだった。たちまち背筋がぞっと凍りつく。

「それで、どうしても気になってよ……どこに住んでんのかとか、そもそも何者なのか、モデルでもやってんのかとか……。それで俺、気づいたら駅前にいたんだ。この辺であの坂を下るっていったらもう、目的は駅くらいしかないだろ。どっか出かけたのかなって……俺、馬鹿みてえだけど、ずっと駅前で待ってたんだよ。あの人たちが戻ってくるのを」

 再び、背筋を冷たいものが駆け抜けていった。では、お茶会の日の帰りに感じた異様な視線は、気のせいではなかったのだ。あれは駅前で待ち伏せていた、慎二の視線だったんだ――!

 彼は大いなる誤解をしている。それは決して放置してはいけないものだ。わかっているのに、何も言えなかった。普段全く見せることのないような、熱に浮かされた彼の目つきを見ていると、どうしても躊躇われた。

「……知らなかったよ。そうなんだね」

 かろうじて出た声は、自分のものではないみたいだった。

「だけど、彼女たちはもう、いないんだ」
「だからなんだってんだよ」平然と、当たり前のように、彼は言った。「そう簡単に諦めねえよ、俺は」

 なんだって?

 予想外の発言に僕は耳を疑う。

 慎二は、まるで冒険小説の主人公みたいな、まっすぐで力強い目をしていた。決して折れない、曲げない、そんな気迫を感じる目だ。
 僕はそこで、一つの決意を余儀なくされた。

 僕=アリス。この真実だけは、絶対に墓まで持って行かなくちゃならない。
 でなければ、きっと僕は、怒り狂った慎二に八つ裂きにされてしまうだろう。


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