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赤い靴と踊る

 男が靴屋に弟子入りして一年が過ぎようとしていた。師の店に下宿しつつ工房の掃除をし、水を汲み、道具を買い付け、頼まれたときに客の足を採型する毎日だった。デザインや製作にはなかなか携われなかったが、特に不満もなく生活している。

「おまえは本当に靴が好きなんだな」

 あるとき、男の作った夕飯を食べながら師は苦笑した。

「普通、弟子どもはよ、早く作らせろって駄々捏ねて出て行っちまう奴が大半なんだ。それをおまえは文句一つ言わねえで」

 男は目を瞬いた。そうか、自分は靴が好きなのか……と改めて思い知る。

「毎朝出勤するだけで幸せですから」
「そりゃいい。これからもびしばししごいてやるから安心しろ」

 そんなある朝、男がいつも通り下宿部屋から下に降りると、師が木箱を携えて立っていた。

「丁度良いところに」と、男の手に箱を押しつける。
「なんです、これは」
「靴だ。作り手は不明だが高名な貴族様がお使いになられていたらしい。まあ、いわゆる曰くつきってやつだ」
「どうしてそんなものが」
「えらい綺麗な靴だから、暇なときに手入れしてやろうと思ってよ。そしたらまた買い手もつくだろう。それまでそこの台に飾っといてくれ」

 師はエプロンをつけ、開店準備に入っている。男は訝しげな顔で箱を開けた。

 そこには血のような赤に覆われた、女の靴があった。細く華奢な金のヒール、つま先にあしらわれた薔薇細工。何もかもが精巧で素晴らしく、男の目には眩しかった。

 彼はおぼつかない手つきで靴を抱え、こわごわと台に乗せた。靴がまっすぐ立ったとき、気のせいだろうか、一瞬、靴の中に白い足が見えた気がした。

「何ぼっとしてんだ、とっとと掃除しろ」

 師の声に我に返る。

 男は通常業務に戻ったが、頭の中には先ほど見た白く清廉な足が焼きついていた。

 それから男は何をするにも、できるだけ赤い靴のそばにいるようになった。夜、師も寝静まってから下に降り、蝋燭の火に浮かんだ靴の輪郭を一晩中ぼうっと眺めた。靴をじっと見つめていると白い足が見えてくる。それが一体誰のものなのか、さほど興味はなかったが、ただ美しい女であろうことは想像がついていた。



 赤い靴が来てから一ヶ月が過ぎようとしていた。

「おまえ、最近おかしいぞ」

 師が、男を窘める。

「その靴が気に入ったのはわかるが、仕事をおろそかにするんじゃない。これはもう片付ける」

 師の手が伸び、男の視界から赤い靴が消える。その瞬間、男の顔にさっと血の気が走った。

「返してください!」

 今まで一度も大声などあげなかった男が憤怒の形相で叫ぶ。彼は尊敬していた師に飛びかかり地面におさえつけ、赤い靴をもぎ取った。

「何をする! 待て!」

 男は走った。両手に真っ赤な靴を抱えたまま、商店街を駆け抜ける。
 泥棒、という叫び声が遠く後方から聞こえた気がしたが、男は気にもとめなかった。血走った目を剥いて、ただこの町から去ることだけを考えていた。

 男は足を止めなかった。まるで何かに取り憑かれたように、日が出て沈んでゆく間もひたすら走り続けていた。視界がくらくらとゆがみ、身体は疲労に喘いでいるが、止まらない。靴をこの手に守ること、ただそれだけが男を突き動かしているのだった。

 ようやく男の足が止まったとき、月は真上に昇り、周囲は鬱蒼と木々に囲まれていた。眼前に古びた建物がある。屋根や壁の一部が壊れて朽ちているが、どうやら教会のようだ。

 靴を抱えたまま、ふらふらと廃墟の中に入っていった。崩れた内装の向こうに未だ十字架は健在で、その周囲だけは瓦礫に覆われていない。

 男は赤い靴を石床の上に置いた。
 崩れた天井の隙間から靴の中に一筋の月光が落ち、まるで本物の足が入っているように見えた。男ははっと息を呑み、靴の中の光る足を凝視した。

 男の眼前で、白い足と靴が、たん、と音を立てる。まるで彼を誘うようにくるりと回ってみせる。男はすり切れて邪魔な自分の靴を脱ぎ捨て、裸足のまま立った。赤い靴が踊るのに合わせて、男もぎこちなく動く。ステップを踏み、ターンして、眼前にある白い足と共に、月が沈むまで踊り続けていた。

***

 早朝、年老いた修道女と神父が森の中を歩いていた。

「我々が移籍してからすっかり廃墟となっていたとは……せめて、取り壊される前に綺麗にしておかなくてはなりませんね」
「よい思いつきです。主もお喜びになるでしょう」

 二人は廃教会にたどり着き、中に踏み入った。神父の足がぴたりと止まる。後に続いた修道女が、ひっと引きつった声を上げた。

 一人の男が石床に倒れ伏していた。剥き出しの足は見るも無惨にすり切れ、その周囲に夥しい血の赤が広がっている。
 男の隣に、赤い靴が転がっていた。周りの血だまりを吸ったかのように、濡れそぼって輝いている。

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