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あれが夢なら


夢の中で兄は小説家になった。自分の本業のお菓子屋の店舗の前において少しずつファンが付き、実際に書籍化までされたのである。

その売り方がすごかった。まず、お菓子を求めて買いに来るお客と、その小説を求めてやってくるお客は完璧に棲み分けされていた。お菓子を買いに来る人の手は、男女ともに細く、マニキュアを塗っている手など一つもなく、清潔感が染み付いたような白い白い手だった。逆に、小説を手に取るひとの手は浅黒かったり、大きな深い傷跡があったり、派手なネイルが指から3cm以上せりだしているような手ばかりだった。兄は昼間はきなこ色の木が丸く切り出された棚に透明セロファンに包まれたお菓子がそっと置いてある、優しさばかりが店外にまで溢れだすような店を営み、夜になるとスプレー落書きがべちゃっと塗られた灰色で薄暗いシャッターにでっかく小説の書き出しが書かれたポスターを貼った。昼にはよく焼けたバターのしっとりとした香りが、夜には乾いたポスターの硬い匂いとスプレーの鮮やかな色のある匂いが混ざり合った。ポスターは、ただただストーリーが書かれているだけではなく、フォント、背景、余白。そのポスター全てが小説の世界観そのままだった。

次の日の夜は、その続きを貼った。そのまた次の日には、また次の続きを貼った。どれも500文字ずつぐらいだったが、そのシーンごとに計算されつくされたポスターのデザインが、その領域を飛び出して夜の中に世界観を作った。もしその上からスプレー落書きがされてしまった場合には、次の日にはまた同じものを貼った。落書きされなかった日だけ、物語が進む仕組み。いつしか落書きはされなくなったが、夜の中で息をする人々が大勢集まるようになった。

ただの商店街の一角にあるお菓子屋の前に夜な夜な集まる人々。その異様な光景は、近所でもすぐに評判になったが、その地域の人は誰も文句は言わなかった。なぜだろうか、そこに集まる人たちは、一言も言葉を発さず、ただ目以外は脱力させて棒のように立ち尽くし、無言で一心不乱に小説をむさぼり読んでいた。最前列で読む人の後ろには一糸乱れぬ人の列ができ、読み終わると皆ただただ無言で目を硬直させたまま、その場から去っていく。そうやって列は無言で進む。あまりに静かで、目で文字を追う人々の眼球が動く音すら聞こえてきそうだった。

その物語が完結する前に書籍化の話が舞い込み、兄は先にポスター上で完結させることを条件にその話を飲んだ。完結されたと同時にすぐ書籍は全国の本屋と兄のお菓子屋の隅っこに置かれ、毎日どの商品より早く売り切れた。

やっぱり兄はすごい、敵わないと思いながら、私は風呂に60度のお湯をためていた。沸騰しろと願いながら、ただただためる作業を繰り返していた。風呂の栓はしっかりと閉まっている、お湯もしっかり蛇口から勢いよく出ている、なのに風呂はいつまでたってもたまらなかった。私は焦った。何度も栓が抜けていないかをお湯の中に手を突っ込み、肌を赤く焼きながら確認した。熱い。たまらない。我慢できない痛みだ。それでも今は、風呂がたまらない方が耐えられない。そうだ、今風呂がたまらないなんて耐えられない。焦りが心を焼く。蛇口を更にひねって強めると、ドドドドと音を立てて湯気があがった。その瞬間、唐突に風呂いっぱいにお湯がたまっていた。そこで一息つく余裕なんてなかった。私はその兄の書籍を何度も何度も、ためた風呂に投げ入れた。紙のそれは水面に浮くことはなく、トプリと音を立ててそっと底まで沈んだ。いや、音を立てたのではなかった。風呂の水が、トプリと言った気がした。私は酷く安堵したとこで目覚めた






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