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表札を掲げる(マイノリティのラベリングについて)

窓の外を想像してみてほしい。

窓の外、ということはあなたは建物の中にいる。居心地のいい自宅なんかが適当だろう。
では、窓の外には何があるだろうか。ありふれた住宅街だとすれば、道があり、さまざまな家があり、小さな公園もあるかもしれない。人がおらずとも、穏やかな人の営みを感じることだろう。

さて。その、あなたが今まさにいる”居心地のいい家”がなくなったとしたら、どう感じるだろうか。

つらつらと何を書いているかといえば、ラベリングについて私が理解しているビジョンを伝えようと四苦八苦しているところだ。

私が感じるに、ラベリングとは家の前に掲げる表札ようなものであると思う。私が私を理解し、安堵し、自己を承認するための寄る辺であると思う。そうすることで、自信や自己実現に繋がるのだ。人間は、『わからない』ということを嫌ういきものだから。

では、『寄る辺のない人間』とはどんな人だろうか。不安そうで、自信なさげな人を想像しないだろうか。少なくとも、ポジティブなイメージよりもネガティブなイメージを思い浮かべる人が多いことと思う。

『アロマンティック・アセクシャル』という表札を得る前の私は、やはり寄る辺のない人間であった。自分の中の不安や嫌悪感―例えば、『結婚適齢期なのに』『他者に恋愛感情を抱けない』であるとか、『そもそも接触に嫌悪感を感じる』とか、アロマンティックおよびアセクシャル当事者には月並みな事だ。―そんなものに名がつけられないことに、さらに不安と自己嫌悪を募らせていた。

それなりに長いこと悩んで迷走して、どん詰まりで行き詰って『人間として欠落しているのではないか』と自己をやたらと貶めて、「私なんかでいいなら」と付き合った異性とも結局はうまく行かなかった。

当たり前の話だ。私は私につける表札を掲げる努力を怠ったまま、「どうあってもマジョリティにはなれない」という現実から逃避した上、闇雲になれもしないマジョリティの型にはまろうとした。それが一番”安パイ”だと思い込み、思考停止していたからだ。2022年現在、"適齢期"を過ぎた独身女に貼られるレッテルは、先人たちのおかげで多少ましになったとはいえ未だ厳しいままだから。まあ、この話はセクシャルマイノリティとは別の話なので置いておく。

先に述べた通り、私はアロマンティック・アセクシャルという概念自体を10年ほど前から知ってはいたが、自分が当事者であると言い切ることができたのは一昨年の話である。それは、ヘテロ・ロマンティックが投げかけてくる「まだ知らないだけ」「運命の人と出会ったなら」というお題目を、マジョリティの皮を被ろうとしていた時代の私自身も唱えていたからに他ならない。言わば、私は自らのマイノリティの側面を認めることができず、自らの口を塞いでいたのだ。

思い返せば、いままでの人生で一度も特定の異性と付き合いたいと思ったこともなく、接触に嫌悪を感じていて、そもそもカップルや夫婦をはじめとした、やたらと距離感の近い関係を自分がすることに抵抗感があった。役満か?ってくらいアロマンティック・アセクシャルの条件が出そろっている。よくこれで「いや、きっと誰かとマッチングするはず…」とか思えたものだ。人間の思い込む力とは恐ろしい。

とはいえ、ここまでくるとヘテロ・ロマンティックの呪いの存在を感じざるを得ない。よくよく周囲を観察してみれば、目に触れるあらゆるメディアに異性愛の要素は大なり小なり含まれていることを考えれば、これは一種の洗脳と言えよう。人間の目に触れるもの全てにサブリミナルを仕込んだ“侵略”を描いた『ゼイリブ』はやはり正しかった…。

『ゼイリブ』ジョン・カーペンター監督作 1988年
極秘に進行しているエイリアンの地球侵略。そのエイリアンの正体を判別できる特殊なサングラスを手に入れた主人公は、抵抗運動に参加する事になるが……。サブリミナルによる姿なき侵略を描いたJ・カーペンターのSFスリラー。私的オールタイムベストに入る映画です。見てね!()


なにはともあれ、5年ほどかけた七転八倒の末、私は『アロマンティック・アセクシャル』という表札を得て、確実に変わった。

まず、腹が据わった。私は性嫌悪のあるアロマンティック・アセクシャルの女であるから、自己のライフステージの中から結婚はほぼ消えた(一応可能性は0ではないので、”ほぼ”としておく)。ぼんやりとあった『子供を持つかもしれない』という幻想ですらない幻覚も消えた。子供の人生に責任を持つことはできないが、慈しむ存在として犬猫を育てて見たいと思うようになった。なにはともあれ生きていくには金がいる。死ぬまである程度食いつないでいけるようにするには人生設計を持たねばならない。…そもそも、結婚したとて人生設計は必須だが、私は先延ばし癖のあるぐうたら人間なのでこういうきっかけでもないとなあなあにしてしまうのだ。

ともかく、腹は据わり、食いっぱぐれないようキャリアチェンジなんかも計画した。万が一突然死しても遺品整理に困らないよう、生前整理がてら断捨離もした。オタクゆえの物に満ち溢れた部屋が片付きくと、不思議と思考もクリアになった気がした。

そうして、今までの人生でこれ以上ないほど、『”私”はどんな人間か』ということに向き合う時間ができた。親から求められている”子供”像でも、社会的に求められている”社会人”像でもない。いわゆるパーソナリティ(他者から見た自己)ではない、私が私を発掘し、認識し、私が私であると承認し、新たに自我を獲得したような心持ちであったと思う。

そこで初めて、約10年間見ないふりをし、別のラベルで覆い隠そうともしていたのに捨てられもしなかった『アロマンティック・アセクシャル』という表札を掲げることができた。Twitterのアカウントを作ったのは、一昨年の8月だった。


Ace界隈のコミュニティは平和だ。話題のまとまりなどなく、みんなゆるく好き勝手に呟いているが、不思議と連帯感がある。私はそれを眺めて、「いいご近所さんだな」と思う。オタクなので今までいろんなSNSアカウントを作ったが、正直このコミュニティが一番平和で、穏やかで、居心地がいい。”HOME”であると感じる。
なぜかといえば、頭から否定する人が少ないように感じるからだ。
皆、大なり小なり、マイノリティとして否定され、それに傷ついてきた経験があるからかも知れない。

そんな中、アセクシャルを題材としたドラマが先日まで放映されていた。私はこの当該作品を見ていないので、このドラマに関しての話は控えるが、問題はこのドラマやAce関連の記事に付く当事者以外のコメントである

「こういう用語多すぎ」「めんどくさい」「もうこういうのいいから笑」「マイノリティは声がでかい」

そもそも、こういう発言をわざわざ投げかけてくるマジョリティは、ラベリングがなぜ必要かの意味をまず理解していない。

ラベリングは当事者のためにあるものであって、他人をカテゴライズするためにあるものではない。当事者が自己理解を深め、同じラベリングを持つ仲間と出会う手がかりにもなる。また、”マイノリティである”と発信することで現実にある問題が可視化されるきっかけにもなる。

現に、先述のマジョリティの投げかけは奇しくも『マジョリティの圧』に他ならない。
だからこそマイノリティは、”わざわざ”ラベリングを掲げねばならないのだ。

とはいえ何もマジョリティにマイノリティの苦しみを理解しろなどというつもりはない。しかし、ラベリングをやめろという暴論に従う理由もない。ラベリングを無理やり剥がすことは名を奪うことにも等しい。言霊信仰のある日本では想像しやすいことと思うのだが。

そもそも、マジョリティであろうがマイノリティであろうが、他人には私の苦しみを理解できない。
それと同じように、私は他人の苦しみを理解できない。

だからといってマイノリティからラベリングという名を奪いマイノリティをマジョリティに矯正すべしというのは、あまりにも非人道的で、暴力的で、前時代的すぎやしないだろうか。それこそ、同性愛者を精神病院送りにしていた頃を想起させる。
人間は良くも悪くも変化し、それに順応していくものだ。それは必然である。それを怠けることは、人間が人間たるアイデンティティをかなぐり捨てることにも等しい。

そして、我々は同一の存在ではない。そもそも別の自我を持つ存在の群れである。そんな我々に、完璧な相互理解など土台無理な話だ。
しかし、ここで『変化』と『順応』の出番である。お互いの違いを知り、すり合わせをすることで共存することは可能だろう。…この下り、これまでのnoteで何度となく書いているのでついボブネミミッミの「もう見た」顔になってしまうが、しつこく、何度だって書こう。これは、すぐ皮肉に走ってしまう私への自戒も込めて。


100%の相互理解は不可能だ。しかしすり合わせて共存することは可能である。
すり合わせとは、他者を否定し、無理やり矯正することではない。
自己と他者の違いを認め、境界線が引けてこそ自我が保たれるのだ。



それでは。


「カミングアウト」という視点で似た文章をたらたら書いてたので、こちらもよろしければ。

「マイノリティの矯正」についての繰り言はこちら。

ラベリングを剥がそうとする徒党にブチ切れてるnoteはこちら


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