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徒党を組んで投げる葦(自由意志と主観、マイノリティの口を塞ぐ手について)

恋愛感情がないとなぜ人非人とされるのか?
これはアロマンティックを自認してから長らく疑問に思っていることだ。「恋愛感情がないなんて」の次に続く言葉はパターン化している。「まだその時が来てないだけ」「信じられない」「恋愛感情のない人間なんていない」だいたいそんなもんだろう。下手するとサイコパス扱いすらされることもあるし、「最近アロマンティックかも」なんて、アクセサリーのようにガッついていない演出・あるいは恋愛していない時期を指す言葉として使われることもあるそうだ。生まれてこの方アロマンティックで、”アロマンティック”というラベリングを知るまでは洒落ではなくしこたま悩んだ経験のある人間としては、本当に尋常じゃない憤りを感じる。セクシャリティはゆらぐことはあってもころころ激変することはない。セクシャリティは病気ではないのだ。
このように、恋愛してセックスして生殖することが正道であって、その道から外れた人間は異端と見なし軽んじるマジョリティは少なくない。(アロマンティックの定義からは少し外れるが)なんなら、いい歳(そもそも”いい歳”ってなんだ)してセックスの経験がないと未熟だとする価値観すらある。いつから性行為がイニシエーションになったのか至極疑問だ。少なくとも私はそんなことは教わっていない。ソースがあるなら教えて欲しい。

のっけからトップギアで申し訳ない。まず、人間は主観で生きている。「みんなそう思ってる」というのは、自分の主観を肯定したい感情の表れで、正確に言えば「”私は”そう思っている」だけだ。例えば全世界的に見れば恋愛しない人間より恋愛をする人間の方が多いだろうが、100%ではない。そうなると、『全世界人口は』(=『みんな』)という免罪符は使えなくなる。
なぜ懇切丁寧に嫌味たらしく書いているかといえば、私がこの免罪符を心底嫌悪しているからだ。無論、これも主観である。

人間生きていれば(セクシャルマイノリティを自認している方は特に)多かれ少なかれ『みんなこうしている。”みんな”と同じじゃないお前は異端だ』と石を投げられた経験があることだろう。良くも悪くも人間は個から集団になることで”強くなった”と錯覚しがちだ。
例を挙げれば、”連帯”というとポジティブな印象を受けるだろうが、”徒党を組む”というとどうだろう。なんか悪そうなイメージはないだろうか。
それもそのはず、意味合いを調べると以下になる。

徒党を組む
読み方:ととうをくむ
別表記:徒党をくむ
何事かを遂行するために集団を構成するさま、目的を同じくして集まり団結するさまなどを意味する表現。よからぬ事を企てている集団について用いることが多い表現。
Weblio辞書

善と悪が表裏一体なように、人間のパワーも同じだ。使い方を誤り、連帯が徒党になってはいけない。では、徒党と連帯のなにが違うかといえば、木庭 顕 著の『誰のために法は生まれた』によると、”集団的思考を持った集団が、個人に犠牲を強要すること”だそうだ。よからぬことを企てている集団が何をするかといえば、それはもちろん”よからぬ事”なので、言われてみればその通りだ。悪事とはそうしたものである。


余談だが、こちらの本は法学者が高校生と法に関して古典を引用しながらディスカッションするという内容なので、気になる方は読んでみて欲しい。『法』というとっつきづらそうな題材を扱っているのに、読みやすく面白い。

話を戻そう。マジョリティがマイノリティに対し水戸黄門よろしく”みんな”という印籠を掲げる時、私は先ほど引用した徒党的な(負の)集団的思考を感じる。要はマジョリティに犠牲を強いることで、自分の主観を補強・肯定したいという意思を感じるのだ。
『恋愛しないなんておかしい』『自然の摂理に反してる』なんて言われても「お前の主観の補強のためなんぞに、なぜ私が犠牲にならんといかんのだ?」と憤るわけだ。私が自身の思考や生き方を決めるのは、その生き方が他者の犠牲を伴う”よからぬこと”でもない限り、他人から良し悪しを決められることではないからだ。
こうした私の主観があるように、他人にも他人の主観がある。人間はそれぞれ思考の齟齬があり、理解や共感ができなかったとしても尊重することはできるはずだ。それを否定するというのであれば、それは自由意志を自分からかなぐり捨てる行為だ。正常な人間なら耐えられないのではないだろうか。(ここでは『ラプラスの悪魔』とか決定論だとか哲学的な難しい話は一旦おいておく)

では、なぜ人間は『みんな一緒』だと、安堵し強くなったと錯覚するのだろうか。これは主観だが、孤独から来る不安こそがその根源なのではないだろうか。孤独が不安で、先の見えない未来が不安で、だからこそ集団に属し、「これで少なくとも孤独ではない」と安堵するのだと思う。
これにはとても身に覚えがある。一般的な”恋愛感情”というものが私の過去や思考、どこを探しても見当たらず、マジョリティに属せない己を異端と決めつけて自分自身に石を投げた。後々”アロマンティック”という言葉を知り、思っていたより多くの人が自認していると分かった時に湧き上がった最も大きな感情は”安堵”であった。
しかし、同じアロマンティックという集団に属していても皆が100%同じ思考 (あるいは嗜好)ではない。例えば性欲がまったくない人もいれば、多少ある人も、それが人に向く人向かない人(この性欲が絡むあたりはアセクシャルかセクシャルかの違いである)、人によって千差万別だ。ただ、『恋愛感情がない』(アロマンティック)という1つの条件が合致しただけの集団だから。
そんな簡単な話を、時に人は忘れて集団から徒党になってしまう。徒党の行く末は、極論を言ってしまえば全体主義だ。だからこそ、我々はゆめゆめ気を付けねばならない。

理由も分からず現世に放り出され、終わる瞬間が分からない生は苦痛で、先の見えない未来を生きることは未知という暗がりを灯りもなしに歩く恐怖と闘うことでもあると思う。普遍的な人間の恐怖や不安を誤魔化し生きる上で、恋愛や性愛は恰好の鎮痛剤だろう。なんせ、生殖(子供)というわかりやすい生の理由までついてくる。人間が繁栄するシステムとしては至極順当な流れだ。よくできている。
たしかに、生きて死ぬことに意味を見出したいのは皆同じだ。ただ、不安を誤魔化す鎮痛剤の種類が違う人間もいるというだけの話だ。マジョリティがマジョリティを肯定するためだけの理由にマイノリティを踏み、その口を塞ぐことは徒党的と言わずしてなんというのだろう。

なぜ、”みんな同じ”でないといけないのか?
その疑問を放置することは、それこそマジョリティがよく口にする『種の存続』として相当に危ういのではないだろうか。だって、人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎないが、考える葦であるはずだからだ。


…なんだか『人間って孤独と不安でだいぶ気が狂っちゃうよね』シリーズができつつある。お暇な方はよければこちらもどうぞ。


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