日記 鬱の先に

 鬱の先に何があるのだろう。望むべくは寛解である。それは明白だ。
 だがそもそも何故鬱になるのだろう?遺伝的な要因もあれば環境的な要因もある。それは自然なことだ。誰もがそうなる可能性がある、そんな病だ。
 「病は気から」と昔からいう。いつもの気分はどんなだろう?元気なふりをしても寧ろ虚しさに襲われるだけだ。それこそ経験から知っている。無様な道化になるのは心身共に良くない。結果的に自らを病ませることになる。それも自明のことだ。嘘を吐くのが結局一番良くないということだ。
 「正直であれ」と人はいう。だが一方で「正直者は馬鹿を見る」という。その通りだ、と私は思っている。この凡ゆる嘘が跋扈する世の中で、嘘を嘘と見抜ける人は少ないし、見抜いても平然とそれを受け入れることでしかー若しくは見て見ぬふりをして受け流すかーしなければ真面では生きていけない。
 「何故?」という疑問は基本的に煙たがられる。「そう決まっているから」と充分な説明は殆どなされない。道理?理屈?倫理?それは何だ、お前はそんなことを訊ける立場かと爪弾かれる。そもそもそんなことに時間を割くことを殆どの人は厭う。
 立ち向かう人もいるだろう。だが、多くそれは争いを招く。私もそうすることもあった。そして病んだ。しかし、立ち向かわなかった場合にはひたすら病むしかなかったのだ。
 
 さぁ、そうして多くの場面で「考えない」ことを選択していくようになる。考えすぎもまた病の元だからだ。病は気から。"気"にしすぎもまた煙たがられる。そして自分自身でもいつの間にか煙たがるようになってしまうのだ。
 だが結局、今日も自分の気持ちを気にしてる。どんなに逃げてもいつかは本音に追いつかれてしまうから、だから正直に。これも経験則だ。で、少しはマシになっただろうか?
 なった。
 もしも、周囲の人間が私を理解できなくとも、私が私を理解することを努めることをやめなければ、また目を見開いて世間を理解する努力をやめなければきっと、たとえ気を揉んでも病むことは避けられる。それぐらいの違いだろうが、どうだろう?
 少しは気が晴れただろうか?

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