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プリズム劇場#010「未来と現実を孕む人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【standfm】
https://stand.fm/episodes/65a163003763b0c9165a0ee6
【YouTube】
https://youtu.be/gueg3KGNp1M
【その他媒体】
https://lit.link/prismgekijo


「実は、妊娠していることがわかりまして」
 俯きながらそう言うと、上司はポッカーンとした顔をしていた。そのあと
「へー! すごいじゃん! おめでとう!」
と言った。
「ごめん、俺、妊娠とか、そういうのから一番遠いところにいるから、一瞬ピンと来なかったわ。ごめんごめん。そう、俺達全然気が利かないし、具合悪かったりしたらすぐ言ってね。結婚は? いつするの?」
 上司の左手の薬指の指輪はいつだってピカピカだ。いつも手入れをしっかりしているのだろう。そんな上司が恋バナをする女子高生のような目で私を見ている。
「結婚は……しません」

 社内で私の噂はあっという間に広がった。一体どんな男に騙されたのか。みんなそこが気になって仕方ないらしい。そんなある日、急に部長に呼び出された。
「え、内勤、ですか?」
 私が驚いて声を上げると、部長は
「だって子供抱えて営業なんて無理だろう。時短勤務になるだろうし、深夜に取引先から呼び出されたらどうするの?」
 そもそも深夜に電話してくる非常識なヤツが悪い、とはならないのが会社の不思議なところだ。
「今時夜間保育もありますし、全然大丈夫です」
 私がそう言っても
「でも母親なんだからさぁ、子供の側にいてあげるべきなんじゃないの?」
 私は愕然としてしまった。部長なんて毎日9時10時まで会社にいて、子供の面倒なんて絶対見ていないはずなのに、どうしてそんな矛盾したことが言えるのだろう。

 その日の夜、真っ暗な寝室で、ついついスマホをいじっていた。
 メッセージアプリを開き、タケノリとのトーク画面を開く。1カ月前の私の
「妊娠してた。メッチャ嬉しい!」
というメッセージのあと、連絡が途絶えた。
 私の
「どうしたの?」
というメッセージは、未だに既読になっていない。

 仕事があれば、一人でも大丈夫だと思っていた。でも、その仕事も本当に続けられるのだろうか。時短勤務になれば給料も減るし、フルタイムに復帰しても、今の私の部署は定時で帰ることはほぼ不可能。家にたどり着くのは11時を過ぎていることが当たり前だ。そんな状態で一体どうやって一人で育てると言うのか。部長の言っていることは至極当然なのだ。子供のいる女は、出世するのはほぼ不可能だ。

 オフィスの廊下を歩いていると、急に吐き気がしてうずくまってしまった。ムカムカして気持ち悪くて、そんな時、頭上から
「どうかしたか?」
という声がした。声の方向を見ると上司だった。
「具合悪いのか? 立てるか?」
 上司は私に手を差し出した。上司の左手には、ピカピカの指輪がつけられていた。
「私は横井さんが羨ましいです。一番好きな人に好きになってもらえるなんて、ズルいです」
 私は気がつくと、恨み節を上司にぶつけていた。上司は驚いた顔をしていたが
「そっかぁ、俺は一番好きな人の子供を産める野村が羨ましいけどなぁ」
と言った。
 いつも自信があって、キラキラしているイメージの上司が、初めて寂しそうな表情をした。ああ、この人はこんな顔をするんだ、なんて、妙に冷静に考えていた。
「彼女が妊娠したってわかったら消えるような男ですけどね」
 私が吐き捨てるように言うと、上司は苦笑いをしながら
「男見る目ねぇなぁ」
と言った。
 その通りだと思った。
「でも、産むんだろう?」
と聞かれたので、強く首を経てに振った。
 タケノリとの連絡がつかなくなってからも一度も、堕ろそうと思ったことはなかった。
「会社との交渉は俺も間に入るから、とりあえず元気な赤ちゃん産む準備しろ。野村の赤ちゃんを産んであげられるのは、野村だけなんだから」
 差し出された上司の左手を取り、立ち上がった。私はもしかしたら、一生左手に指輪をすることはないのかもしれない。それでも、この上司が欲しくても手に入らないものを手にしようとしている。神様は一体、どこで人々の願いをを入れ違てしまったのだろう。そんな子供みたいなことを考えてしまった。

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