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子ども時代に出合う本 #17 5~6歳 体験を促し、知る喜びを味わう

絵本から遊びへ

 絵本を読むという行為がきっかけになって遊びに発展していく、ということがよくあります。絵本に描かれる物語が、子どもたちの想像力を掻き立て、現実の世界を押し広げていくのです。
  そんな遊びが豊かになっていくのが、ちょうど5~6歳の頃です。

 何度もこの連載で紹介している今井和子氏の『子どもとことばの世界  実践から捉えた乳幼児のことばと自我の育ち』(ミネルヴァ書房 1996)の5章には、それを客観的自我が育つことによるのだと説明しています。

 五~六歳頃になると子どもたちは、自分を「もしも~だったら」と仮定形のことばをつかってさまざまな人やモノになって考える力を発揮します。これまでは相手(対象)の身になって模倣したり、なりきることで相手を自分に取りこんできた子どもたちが、ことばによって、自分と対象をおきかえてみる経験が可能になり、相手の立場にたって考えられるように成長してきます。(p165)

 そんな「もしも~だったら」という遊びを誘発してくれた思い出深い一冊が、『いすうまくん』(かどのえいこ/作 こうもとさちこ/絵 福音館書店 2014)です。この絵本は、福音館書店月刊誌こどものとも1991年7月号として、我が家にやってきました。2014年に「こどものとも700号記念コレクション20」としてハードカバーになったのですが、現在品切れになっているようです。


 夏休みに、おとうさんが子ども時代を過ごした田舎の家へ遊びに行ったタックン。おばあちゃんに案内された物置部屋のなかに古い椅子をみつけます。座ってみようとすると、おばあちゃんに古くて埃だらけだからとダメだと制止されます。

 それでも気になるタックン。内緒でひとりで物置部屋へ入りこみます。たんすの上においてあった古い麦わら帽子をかぶると、あの古い椅子が「ツクツン ツクツン ツ、ツ、ツトムくん。ツトムくんたらあ、はやく、はやくう」と、話しかけてくるのです。

 自分はタックンで、ツトムはおとうさんのなまえだと、椅子に告げるのですが、椅子は「ツクツン ツクツン、はやく のってよ。ツトムくん」と繰り返すばかり。

 そこで、タックンが椅子に座ると、椅子はそんな座り方じゃだめだと言ってタックンを振り落とすのです。
「だって、ちがうでしょ。きみ、わすれちゃったの?
ぼくが うごいたときは、いすうまのりじゃないか」

 そこで、タックンが背もたれ側を前にして、椅子に馬乗りになると、
「そ、そうです。あー、ひさしぶりだなあ。じゃ、いくよ。いいね。ちゃんと たづなを にぎってよ」
といって、いすうまは外に勢いよく飛び出し、空を駆けていくのです。

 こんな座り方をすると、躾けに厳しい親や先生はきっと言うのです。
「ちゃんと前を向いて座りなさい」とか、「椅子はそんな風にすわるものじゃありません」ってね。でも、背もたれを馬の頭に見立てて、反対向きにまたがって座って遊んだ記憶って、誰にでも一度はあるんじゃないでしょうか。

 そんなこどもらしい遊び心を、国際アンデルセン賞作家でもある角野栄子さんが丁寧に掬いとられたこの作品は、我が家のこどもたち、とくに当時幼稚園年長だった長男の心を捉えたのです。

 絵本の中では、いすうまに乗って空に駆け上がると、そこにはあちこちからいすうまに乗ってやってきたこどもたちの集団がいるのです。学校の椅子が一列に並んで飛んでいたり、ふたごの女の子は回転椅子に乗ってくるくる回りながら飛んでいたり、公園のベンチは5人のこどもを乗せたまま飛んでいたりと、それはそれはにぎやかなのです。

 タックンのいすうまは、とんぼを追いかけて、林の中に降りていくと、とんぼはタックンのかぶっている麦わら帽子にとまる、それを取ろうとして麦わら帽子をぬぐと、もとの物置部屋に戻ってきているのです。

 ちょうどその夏は、当時幼稚園の先生になったばかりの私の弟が遊びに来ていました。次女が生まれたばかりで私にとっては忙しい夏でした。長男と長女は、彼らにとって叔父にあたるけん兄にこの絵本を読んでもらったのでした。
 その夏、我が家で流行った遊びは、押し入れの中にこども用椅子を並べて馬乗りになり、そこから自在にいろいろな世界に飛んでいくというものでした。

 ある時は、宇宙にまで飛んでいき、ある時はジャングルのうえを探検しました。

 「もしも、この椅子が宇宙船だったら」
 「もしも、この椅子がジャングル探検カーだったら」

 絵本の世界で誘発された「もしも椅子が空を駆ける馬だったら」に触発されて、そこからは自在に想像力を膨らませて、絵本には描かれてない世界へと、次々に遊びは展開していったのです。

 物語はこどもの想像力を引き出し、虚構の世界へと導きだしてくれるのです。こどもの生活の中に身近にある「椅子」が題材だったというのも、想像力を掻き立ててくれたのでしょう。身近なところから、想像の世界へ連れ出してくれるのは、角野栄子さんの作品の魅力の一つだなと思いました。


自分を認識する


 5~6歳になると、自由な発想で虚構の世界を楽しむことができると同時に、現実の世界への認識も深まってきます。語彙も増えて、さまざまなものの見方の枠組みが出来上がってきます。
 これまでに経験してきたことを思い出し、それらをいくつかのまとまり、つながりで捉えることが出来るようになっていく、いわゆる「概念」形成ができるようになるのです。


 「概念」とは、weblioでは以下のように説明されています。

思考において把握される、物事の「何たるか」という部分。抽象的かつ普遍的に捉えられた、そのものが示す性質。対象を総括して概括した内容。 あるいは、物事についての大まかな知識や理解。

https://www.weblio.jp/content/%E6%A6%82%E5%BF%B5


 そんなさまざまな概念を形成していく時期で、一番大切なのは「私」とはなにかという認識です。その頃はこどもたちが、なぜひとは生きているのかとか、さまざまな「自分」にまつわることを理解したいと願います。それを前出の今井和子氏は「客観的自我の育ち」と表現しています。

 幼児期の自己中心性から脱却し、自分を客観的に捉えられるようになっていく時に大事なのが、「相手の視点に立ってみたらどう見えるか」ということなのです。

 物語の中で育ってきた「もしも~だったら」が、今度は現実の世界で出会う相手の立場へと置き換わるのです。想像力が育つことで、思いやりも育つといわれるのは、まさにこのことばのです。

  そんなこどもたちに出合ってほしい絵本が、『わたし』(谷川俊太郎/文 長新太/絵 福音館書店 1981)です。



「わたし
 おとこのこから みると
 おんなのこ

 あかちゃんから みると
 おねえちゃん

 おにいちゃんから みると
 いもうと」


 おかあさん、おとうさんからみたら?おばあちゃんからみたら?と、次々と「だれの立場に立つか」を変えていきます。

 友だち、先生、隣のおばさん、犬から見たら?きりんから見たら?アリから見たら?と、その視点はどんどん広がって、身近な人から、自分には縁のない人へと移り変わっていきます。外国の人から見たら?宇宙人から見たら?というように。
 そして、全く知らない人の立場にも立ってみるのです。

「わたし
 しらないひとから みると
 だれ?

  ほこうしゃてんごく では
 おおぜいの ひとり」

 自分のことを知らない大勢の人たちの中に埋もれた自分という視点にまで到達するこの絵本。福音館書店月刊誌かがくのとも1976年10月号のハードカバー版です。

 自分が世界の中心にいるように感じていた「自己中心性」を脱却し、大勢の中の自分が、どのように「自己」を認識していくのか。その自分を肯定して受け入れていくためにも、「大勢」の中のひとりだけど、両親にとってはかけがえのない存在であり、家族の中で大事にされているという経験がとても大切です。視点を自分を中心にして、どんどん広げ、俯瞰して見る、でもまた自分の周りに視点を戻して、「ここに存在する」ことのかけがえのなさを、親子で絵本を通して認識できる。そんな稀有な一冊をぜひ手に取ってみてほしいと思います。




心を開放することの大切さ

 
 自分を客観視できるようになってくる5~6歳ですが、まだまだ心は「自己中心性」と「客観視」の間を行ったり来たりです。もう一人前として扱ってほしいと思う気持ちと共に、まだ甘えたいという気持ちもあって、揺れ動いています。

 おとなはそんなこどもの気持ちの揺れを受け取って、ときにその子らしく心を開放できるようにしてあげたいですね。

 まさにそんな時によく読んだ絵本を紹介します。多くの人に愛されている『かいじゅうたちのいるところ』(モーリス・センダック/作 神宮輝夫/訳 冨山房 1975)です。


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 いたずら好きマックスは、夕方、おおかみの着ぐるみをきて大暴れします。お母さんは怒って夕ご飯抜きで寝室にマックスを閉じ込めてしまいます。するとマックスの部屋に木がにょきにょき生え始め、いつの間にか森になります。すると海まで現れ舟に乗って着いたのはかいじゅうたちのいるところだったのです。子どもたちの心の動きを見事に描き出し、子どもたちに支持される作品です。

 成長の途上にあるこどもたちには、本能的な衝動に突き動かされ、そのエネルギーを自分ではコントロール出来ない時期があります。「自己中心性」と「客観的自我」の間を行ったり来たりしているこどもの姿です。

 でも子育て中の親には、それを理解する余裕なんてないですよね。静かに出来ない子どもは親をイライラさせ、その怒りのボルテージを上げてしまいます。

 この絵本の主人公マックスも無邪気に遊んでいたのですが、度を過ぎてしまったようで、夕ご飯の支度をしていたお母さんを怒らせて寝室に閉じ込められてしまいます。

 その時のマックスの気持ちってどんなものだったのでしょう。夢中で遊んでいただけなのにそれを中断する無理解な親への反抗心と、夕ご飯抜きで閉じ込められた不安とが交錯していたことでしょう。マックスの反抗心は、部屋の中にどんどん木が生えていくことで表されています。野性的な荒ぶる気持ちを象徴するかのようです。そうして辿り着いたかいじゅう島でマックスはかいじゅうたちの王様になります。思いっきりどたばたと踊って、うちなる荒ぶる心を解放し、そうして気持ちを落ち着けてみれば、やっぱり恋しくなるのはお母さんなのです。
 マックスの荒ぶる心が落ち着くまでのしばらくの時間を描きながらも、絵の中に描かれる月が三日月から満月へと変化し、長編ファンタジーのようでもあります。人の心の変化の中に深い物語ががあることを絵が語ってくれています。

 この絵本は、我が家でも4人それぞれから何度も「読んで」とリクエストされた絵本です。

 ある時は、寝る前にこの絵本を読み終わった後に、布団の上で「かいじゅうおどり」が始まって、ひとしきり兄妹で笑い転げたこともあります。

 自分を客観視できるようになってくる時期には、幼稚園や保育園などでも規律を守るために、あるいは友だちとの関係の中で我慢を強いられることもあるでしょう。そうやって、自分を抑える訓練も大事ですが、家庭の中で、親子で絵本を楽しむ時間は、やっぱり心を開放できる時間で会ってほしいなと思います。

 私まで立ち上がって、こどもたちと「かいじゅうおどり」をした夜を、今は愛おしくかけがえのない時間だったと思い出しています。


*ひさしぶりにnoteを綴りました。こどもたちと読んだ絵本をあと2回くらい連載した後、自分で本を読むようになっていく時期の「幼年童話」についても書くことが出来ればと思っています。

(続く)

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