『推し、燃ゆ』 宇佐見りん 感想
読み終えて次のページがないことが分かったとき、ぶわっと鳥肌がたった。読みながらずっと苦しかった。
そして怖かった。
推しのこと以外のことが断片的にぽつりぽつりと出てくるのがひどくリアルで。彼女にとって推しを推すことが背骨であると痛いほど分かると同時に、自分にも似たようなところがある(あった)と感じずにはいられなかった。自分の場合は推しの存在が背骨だった訳ではなく、推しを推しているという状態が背骨だったという感じだけれど。そして今の私は自分の「背骨」を、誰かありきのものでないものに取り換えたいと思っている。はたしてそれがうまくいくのか、そう思うことが自分にとって良いことなのか。その答えはすぐには出せそうにない。
小説を読んでいるとときおり、特にラストに向かう流れの中で物語のスピードに置いていかれるような感覚を覚えることがある。冒頭に書いた最初に読み終えたときの鳥肌は、まさにそこから来たものだと思う。
終わりを知って、その上でもう一度読んでみて、時間をおいてまた読んでみて、というのを繰り返したけれど、最後がなかなか理解できない。それまでの部分の納得感が強かったので気になって仕方がない。また別の機会に読んでみたら分かるだろうか。
ところで、推しが仕事で『推し、燃ゆ』評を書いていたので載せておく。推される立場から見た『推し、燃ゆ』は興味深い。それが推しだと思うと尚のこと。推しを解釈しようとするオタクについてのご意見が知りたかったけれど、それはもちろん書いてあるわけがなかった。
(2021.09.23 - 2021.09.24)
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