欧州で映画を観る(2023年1月)

さあ1月はなんの映画を観ただろうか?と思ってメモを開いたところ、年末年始帰国していた時期だったので、まったくもって「欧州で映画を観」ていなかった。日本の映画館で観た1本と、日本を出る機内で観た4本の合計5本、観た順です。

『THE FIRST SLAM DUNK』

原作未読了勢です。読め読めと言われて読み始めたは良いものの、前半のまだギャグ感が強いところを読んでお腹いっぱいになりそのまま脱落した。確か三井は改心したと思う。そのあたりから面白くなるからと言われているものの復帰できていないという状況で、キャラの名前やストーリーもほぼ覚えておらず…だったのですが、同伴しました。

して、メッチャクチャ良かったね???????特に作品に対して思い入れがあるわけではないのである程度冷静に観られた(と自分では思ってる)んだけど、映画としての完成度がとても高かったと思う。

もし例えばこれを、評判を聞くなり原作を読み終わるなりして思い立って、配信サービスで観ていたとしたら…と想像すると、映画館に行っておいて良かったと思う。映画館で観るのが絶対良いに決まってる!なんて言うつもりはないし、作品の価値は鑑賞方法に依存しないと思いたいけれど、身体に響いたドリブル音や、大きな白い画面を走る鉛筆から生み出されるキャラクターたちや、主題歌である10-FEETの『第ゼロ感』を大きな規模で体感できたのは素晴らしい体験だった(そう、オープニングがすごく良かった)。

わたしはどんな作品を見ても基本的に小さくて速いタイプを推す傾向にあるので、漫画を読んでいる時点からお前の推しはリョーちんだぞと言われてきたんですが、映画が始まるまではそれが誰だったかすっかり忘れており。しかし、始まってすぐ「あれ?主人公、"俺の推し"では?」となって笑った。し、観終わったときはもう「主人公、"俺の推し"じゃん(泣)」になっていた。めっちゃ俺の推しだった。

観終わって「リョーちんはああいう(映画の内容)人なんだね(泣)」と言ったら、「いや、あれは映画で初めて知った内容」と言われて???になってしまった。「どこからどこまでが?」と聞いたら「まあ全部」と言われてしまい、どうしたら良いの?わたしがこれから先スラダンを読むとして、推しがこういう人(映画の内容)であるということを、わたしは既に知ってしまっているのだが???という気持ちです。

逆に言えばリョーちんのオタクはこの映画を観てどんな気持ちだったんだろうね?わたしがそれを味わえれば良かったんだけど、でもそうすると映画を観ながら「"俺の推し"じゃん(泣)」となるわたしはこの世に存在できないわけで、流行りのメタバースってのが早くわたしの日常生活まわりにもインストールされることを願うばかりです。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』

ひと月半ほど前に日本に帰国する際の往路で観ようとしていたが隣の席だったフィンランド人おじいちゃんの世話に手一杯でろくすっぽ観られず、エーンと思っていたこの作品ですが、復路でもちゃんと入ってたぞ!ありがとうルフトハンザ!観ました!

中国系移民のクィア映画といえば『ハーフ・オブ・イット』だなあ、そういえばあの映画ではお父さんは娘のセクシュアリティに対してどういう反応をしていただろうか…と思って確認してみたら、「娘の可能性が見えていない」と指摘されているシーンがあった。あのお父さんは娘のセクシュアリティに口を出さなかろうとは思うが。

中国においては1997年になるまで同性愛が犯罪とされていたという背景を踏まえてみれば、現代の映画の父母世代が同性愛に対して寛容でない姿勢を示していたとしても違和感はないのかもしれない。

題材も設定も好きなのに今ひとつ乗り切れなかったのはなんでだろうな〜と思うに、ちょっと笑いのツボが合わなかったのかも…(アルファ・ウェイモンドのカンフーは大好きだった)。

とはいえやっぱり素晴らしい映画だった。クィアの物語でSFと結びついたものは個人的には今まであまり観たことがなくて、面白いな〜と思った。と同時に、アフロフューチャリズムやフェミニストSFのことを思い出しもし、マイノリティの選択肢を広げる可能性としてのSFの器の大きさについて改めて考えさせられた。

中国語部分の英語字幕を追うのがけっこうキツかったというのは少なからずあるので、早く日本語でもう一度観たい!

『マイスモールランド』

ありがとうルフトハンザ(再)!これは絶対に観なきゃと思っていたのに上映中にタイミングを合わせられなかった映画。まさかここで観られるとは思っていなかった。ルフトハンザ株の上昇待ったなしです。

幼い頃に生まれた地を離れ埼玉に暮らすクルド人のサーリャの物語から、自分がこれまで知らずにきてしまった現実をまざまざと知らされ、隠しようがないほどダバダバ泣きました。

台詞や撮り方の一つひとつから込められた意味が感じられるような繊細な作品だった。サーリャ1人がお父さんのところへ行って話す最後のシーンは特に凄かった。

クルドで植えたオリーブの木の話をしたあと、「目を閉じて。何が思い浮かぶ?」と問うお父さん。「なんでだろう。ラーメン。みんなで行ったとこ。」と答えるサーリャ。サーリャの中にクルドの記憶はほとんどない。お父さんの立場で考えてみれば、それは切なくも思える。でもお父さんは「お腹空いたの?」と笑顔で聞く。音を立てて麺を啜るフリをして笑いながら、「これからは好きなように食べて」と言う。その笑顔が、画面に映る最後のお父さんの顔。その後祈る姿はガラス越しで、以降もうお父さんは映らない。

サーリャの中にクルドがほとんど生きてはいなくとも、祈りの言葉を唱えることは、クルドであることを示している。クルドの要素を自分のものとして意思で選んでいると解釈しても良いのか。お父さんの前だからあえてそうすることを選ぶのか。

無愛想なように見えて、人の機微を余さず感じとっているソウタというキャラクターも凄かった。「クルド人日本語分かんない人も多いから、いろいろ頼まれてて」と言うサーリャに対する「もう先生じゃん」という返し。かける言葉や行動の一つひとつがあたたかくて、自分もそうあれるだろうか、そうありたいと思わされた。

タイトル、『マイスモールランド』について。似た言葉であるワールドに比べて、ランドは土地という意味合いが強い気がする。土地を持たないクルド人の物語として、そこはワールドではなく、ランドでなければならなかったのではないか?そういう意味が込められているのかなあ、とか。

自分が日本人だというだけで、日本に住む人に「日本から出ていけ」という資格があると思い込んでいる人、なんなんだろう。そして、異国のものに対して無邪気に「お洒落」「かわいい」ということについても考えさせられる。

これを観て、泣いてるだけじゃダメなんだよな。最後のシーンのサーリャの目の力強さ。その美しさ。そして、その目の力強さを生んでしまう理不尽さ。覚えていたいと思う。

『ウエスト・エンド殺人事件』

あんまり覚えてない。キャストは豪華だったけど、それ以外全部地味だった。

『경아의 딸 / Mother and Daughter』

『賢い医師生活』のホ・ソンビン役であり『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』のチェ・スヨン役のハ・ユンギョンさんが主演。復縁を望む元恋人の要求を拒否したら、その腹いせに知り合いとネット上に動画をばら撒かれて…というストーリー。

最初っから最後までしんどいな…という感じだった。最後主人公であるヨンスは前を向くようになっていくんだけど、それにしたってあまりにも失うものが多すぎる。女性同士の連帯も重要なテーマとして描かれているけれど、過干渉な母親を騙し騙し生活している「ギョンアの娘」から逃れられないヨンスの姿とか、息子の立場を守ることしか考えていない元恋人の母親の姿とか、個人的にはそちらの方が強く印象に残ってしまった。

デジタルタトゥーの時代に一度そういうことが起こってしまうと、結局すべてが丸く収まるなんてことはあり得なくて、被害者がどこかで気持ちに折り合いをつける以外に方法はない。なんだかなあ。やるせない気持ちは消せない。

撮らせちゃいけないというのはもっともなんだけど、どうも議論のすり替えみたいな気がしてしまう。どうしてこういうときに被害者側に立たされるのは女性ばかりなんだろう。どうして同じことをしていても、女性と男性では捉えられ方が違うんだろう(この映画ではその映像に映っていたのはヨンスだけだったかも)。どうして女の性欲には空虚で乱暴な価値が外から勝手にくっつけられているんだろう。

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