叶うならば底抜けに明るいひとになりたかった。
はい。本日は表題の通りです。
わたしはひとから特別暗いとは言われない。というか見た目はどちらかというと「公私共にマイペースに充実させとります」系女子(※そういうジャンルがあるかは知らんけど)に見えるらしい。
でも、他者からわたしの性格や振る舞いについて「明るい」と評されたことは、記憶にある限り人生で一度もない。
わたしは死ぬほどシャイなので
(※でもごくたまに見せる大胆さが自分の魅力だとも実は心のどこかで思っている。笑)
おそらく「明るい」と言われたことがないのはシャイガールなせいだと自分では思っているけれど、
特に「愛想笑い」という武器を身につけた社会人になってからは、人前で明るく笑うことはあまりなかったように思う。
親しくしているひととの飲み会や会社の歓送迎会なんかでは
せっかく来たんだから自分を楽しい気分にさせたいとお酒の力を借り
翌日か早ければその日の深夜には
周りに羽目を外しすぎと思われなかったか
酔って何か変なことを言ったかもしれない
なによりも酔っ払って笑っていた自分が気持ち悪くてしょうがない
と自己嫌悪にも近い感情が襲ってきて、しばらく飲み会は誘われても行かんとこ、ってシャワーを浴びながら毎度心に誓っていた(と言っておきながら結局誘われたら毎度断れずに行くんだけれど)。
心理学的にはきっと、ポジティブな感情の振り幅が大きいと反対側にも大きく振れる振り子みたいなモノですよ〜とか、何か学問として説明がつく感情なんだろうけれど。
この「飲み会翌日の激しすぎる虚無感および自己嫌悪」は正直いまも完全に消えてはおらず、よそで誰かと楽しむことに対する恐怖心や罪悪感のようなものが、未だにわたしを底抜けに笑わせてはくれない。
底抜けに明るいひとに憧れる。
でも、いくら憧れていてもわたしがそれをやろうとすると、ただの「無理してるイタイひと」に陥っている気がしてならない。
もともと底抜けに明るいキャラでもないし、そういうキャラや役割が特別好きという訳でもない。
というか「みんな違って、みんないい」的精神でいくとそういう役回りは自分じゃなくても他に担える方がいるので、わざわざ無理する必要はないんじゃないかなと思ったりもする。
ただ、生きてて楽しそうに見えるとか
小さなことに感謝できる幸せなひとに見えるとか(※本当にそうかどうかは知らんけど)
そういうふうに見えるひとは羨ましいな、とシンプルに思う。
結局、ひとからどう見えるか?を気にしてしまっているということなんだろうな。
いまそうではない自分に出会おうと必死にもがいているけれど
結局ひとからどう見えるか?を気にする自分自身の本質は変わっていないんだろうな…と悲しくなる一方で、
この「ひとからどう見えるかを気にする」習性ははみ出し者を袋叩きにする日本社会での一種の「処世術」でもあると同時に、封建社会に生きる“女のサガ”みたいなものでもあるのかもしれない。
キャリアを突き詰めようと、夢を追い続けようと、恋愛第一で生きようと、結婚しようと、子どもを産もうと、何だろうと
結局女という生きモノは「ひとから幸せそうに見える生活を送れてること=自分の幸せ」になってしまっているんじゃないか?
という仮説がわたしの中にずっとあって、
でもわたしは自分自身の人生を「ひとから幸せそうに見える生活を送れてること=自分の幸せ」の構図にはどうしてもしたくなくて、
人から見た「当たり前の幸せ」のようなモノを拒み続けて、いまに至る。
自分の心にしたがって、結婚生活や相手がフィットしないと思えば離婚もしたし、価値観が合わなくなった組織の中でひとへの配慮ばかりして不本意なことを買って出てしまう自分が嫌になりついには会社員も辞めた。
ひとから楽しそうに見える自分より
本気で楽しいと思いながら死ぬまで生きている自分を優先したい。
人生は、きっと想像しているよりはるかに短い。
だからこそ、死ぬように生きる自分を是としたくない。
今日もそういう思いで、わたしは生きている。