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土成り、人成る① 山城の楽しみ

 少し前から城廻りを時々している。城といっても大阪城や姫路城のような立派な平城よりも、天守閣、櫓といった建築物のほとんどない山城を好んで訪れる。標高200~300メートル、高くても400~500メートル程度のいってみれば小山が多いので、軽いハイキングである。

城は砦

 そもそも「城」といえば、満々と水をたたえた堀と美しく積まれた石垣に囲まれる三の丸、二の丸そして本丸からなり、最重要拠点の本丸には三層や五層からなる立派な天守閣が聳え立つ、といったイメージが一般だろう。しかしこうした形式が確立してくるのは戦国末期、織田信長が天下統一を果たそうとするあたりからである。それまでの城といえば、随所随所の丘、小山を利用して戦うための砦として土木工事を施した防御陣地というのが主流だった。つまり山城である。砦であるため戦いのない平時にはそこには居住すらしていないこともあった。
 城が山であるというというのは、古代から鎌倉、室町、戦国末期に至るまでの一般であった。長い間には使われず廃城となったものもあれば、地の利高く修築改造が幾度も施され長期にわたり利用されたものもある。全国には3~4万もの山城(跡)がある。例えば上杉謙信の春日山城や、朝倉義景の一乗谷城などは立派な山城で、小高い山を上手く利用してつくられた。山頂本丸に櫓、館などはあったにせよ天守閣なるものはなかった。そもそも周囲を見渡せる山なので、機能的には天守閣のような高楼をさらに立てる必要はない。

一乗谷城址

 乱世もおわり徳川泰平の時代になると基本的に一国一城とさだめられ、戦いの拠点となりうる城は取り壊された。破城あるいは城割という。城はむしろ統治の拠点としての役割を担うようになり、平地に大規模に、また建築物にも意匠が凝らされ美的感覚を競うかのように壮麗に作られた。万が一に備え、防御機能として水堀、石垣、枡形虎口などの工夫も怠らない。これが多くの人が一般に「城」と言われて想像する大きな天守閣を伴った様態である。

大木工事現場

 山城には、平坦に掘削した「曲輪」(くるわ)、防御用の土塁、寄せ来る敵をはね返す急峻な「切岸」(きりぎし)、敵兵の移動を妨げる「空堀」、「竪堀」、「堀切」(ほりきり)など様々に工夫の凝らされた遺構が今でもはっきり確認できることが多い。南北朝期から戦国期にかけて、さまざまな大名、武将、豪族、国人が生き残りをかけしのぎを削って知恵を絞った証である。そうした場に身をおき、寄せ手側、防御側、さらには縄張、作事作業に駆り出された者の気持ちになって、あれやこれやと観察し、想像するにつけ感興そそられる。場所によっては矢軸にするために植えられた矢竹がいまだ生えているところもあり、数百年の時の間隙が一気に埋まる感覚にとらわれる。敵に攻められ籠城するとなれば水の有無が死活を分ける。どの城も水源の確保を重視した。今でも水の湧き出る井戸や泉の残る城もある。武将の飲した水を手で掬ってみれば古人の心意気まで体内にしみ渡る思いがする。

今も湧き出る水源

 山城には数百、場合によっては数千の武将兵士か滞陣し、怒声をあげて戦い、敵を撃退し、また多くの犠牲者を出した。火にまみれた凄惨もあったかもしれない。戦の合間には暖を取って休息もしただろう。今では訪れる人も稀な深閑とした山中で、過去には無数のドラマが繰り広げられたに違いない。

      鬨の声 馬のいななき 鎧の音
           樹々に沈みて 鳥の鳴くなる

土成り城成る

 山城のひとつひとつに、天然地形を生かしつつ工夫の施された個性がある。掘削地をどこにつくり、土塁や切岸をどのように配置し、尾根や谷をどのように利用するのか、などは築城者の知恵と戦略の見せ所である。城はもともと山であり、土を掘り、土を積み上げ構築した陣地だった。城という漢字をくずせばわかるように土から成ったもの。それ故、この駄文表題も「土成り、人成る」とした。「土成る」は「城」の意。しかし構築物ばかり立派でも戦には勝てぬし、ましてや強靭な国づくりはおぼつかない。人あってこその城。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方,仇(あだ)は敵なり」とは名将武田信玄の有名な言葉。それにあやかり表題後半は「人成る」とした次第。

残る石垣

 立地も重要だ。山城は大抵周囲よりも高い山に築かれ、戦う陣地としての機能を中心としながらも、時代と共に統治や行政の機能を兼ね備えるようになる。勢力を誇った有力武将の城の立地はおおかた共通している。主要街道沿い、あるいはいくつかの街道の交差地で、近くには流通をたすける比較的大きな川が流れる。城下には人が集まり商業活動をする一定程度の平地や平野が広がる。米作りのための田んぼが広く確保できればそれは大いに優利に働く。こうした共通条件を満たした地に主要な山城は立地している。つまり川と広い平地を麓にもつ小高い山である。従って、山城の山頂(本丸)にまで上がると、さほど標高の高くない山でも大抵、下界の地形や景色が箱庭を鳥瞰するようにきれいに見渡せる。ハイキングとして登った末に美しい眺め堪能できるとは、これまた山城探訪の大きな楽しみの一つでもある。

主廓からの眺め

城物語

 地形だけでなく、それぞれの城には長く語られる武勇伝、栄花物語、没落秘話が必ずあり、訪れた者の感興を誘う。楠木正成が寡兵ながら知恵と軍略で鎌倉幕府大軍勢を蹴散らし勇戦した千早城、北陸平定を企図する柴田勝家を見事敗退させた上杉謙信の七尾城、毛利勢相手に奮戦しながらも織田信長に見捨てられて尼子経久、山中鹿之介が無念の最期を遂げた上月城などなど枚挙に暇ない。有力武将の華々しい英雄譚が静かな山城に生命を吹き込む一方、主要な城のまわりにある支城、付城を巡る奮戦記、地方豪族・国人の人情話もなかなかに興味深い。近くの市町村の郷土資料館などにいけば、教育委員会や郷土歴史家の手になる地元ならではの史料や啓蒙資料にも触れられる。

総合レジャーとして山城探訪

 昔栄えた城であれば多くの場合、近くに城下町を備えていた。今では嘗ての繁栄を失いひっそりとしていることが多いが、それでもその名残をとどめていることもある。地元自治体や保存会が山城を含めて地域社会の維持復興に取り組んでいることも少なくない。そうした地域社会の現状にふれ、地元特産品、伝統食などを楽しめることも山城訪問の魅力の一つだろう。
 体力を使い健康によく、美しい景色に心洗われ、遠い古人の生き方に感興を得て、下山後には地元の食事を楽しみ、帰りがけに温泉にでもつかることが出来れば、言うことなしの1日が過ごせる。交通費をのぞけば総じて費用はあまりかからない。山城歩きはあらゆる要素を含み持つ良いことづくめの総合レジャーである。

 山城ひとつひとつに表情があり物語があるので、私は訪れるたびに感懐を得て帰ってくる。しかし、記憶力の薄い私はそうした感懐も容易に忘却の彼方に追いやってしまう。残念きわまりない。そこで備忘もかねてこれから城訪問記でもつづってみようと思いたった次第。
 さてこれから「土成り、人成る」はいかに展開するやらん。
                           (2024年1月)


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