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苛烈で残酷な話

約2年ぶりにnoteを更新します。ある程度定期的に書けていたころは大学2年生だったのに、もういつの間にか就職を控えた春休みになっちゃいました。対して中身のある日々でもないのに時間が過ぎていく感覚だけは年々早くなっていってちょっと焦っていたりもします。

僕自身、他人の価値観を知ったり、それについて議論することはもともと好きなんですけど、時間に余裕ができてしまうと一層ぐるぐると思考を回してしまうもので、友達と話すときは毎回「幸せって何?」とか「頑張るって何?」とか答えのない、一見すれば面倒くさい問いを投げかけちゃう悪い癖もあったりします。ごめんね。

そんなこんなで夜な夜なゲームをしたり食事をしながら友達と話をしていく中であることを言われました。
「お前は自己責任論を振りかざし過ぎる」と。
確かに自己責任論は僕自身の根幹をなしているし、他人の行動を見る中でも大事な基準になっている自覚はあったのですが、それを批判されるとは思ってもみなかったんですよね。身勝手で傲慢な話、「自分と似たような環境にいる人は大体そうだろう」とか思ってたんです。

改めて自分のことを見直してみようってことで、自分の考える自己責任についてちょっと書いてみます。2023年時点の自分の備忘録的な感じで。
ちょっと長めな自分語りに良ければお付き合いくださいませ。

自己責任について最近思うこと

“生きづらい世の中だ”っていうのは誰しもが少なからず感じていることだと思います。かくいう僕もなんだか呼吸が浅くなってしまうような、カップ麺の容器が縮んでしまうくらいの深海にいるような、漠然とした圧迫感と不透明感に苛まれる毎日です。

TwitterやInstagramを見ていると毎日うらやましくなるようなキラキラした他人の日常やら成功体験やらが目について、ちょっとでもうらやましく思ってしまう自分に嫌気がさしたりして。

きっと僕は恵まれている。親のお金で不自由ない暮らしをさせてもらってもいるし、ある程度まともな大学も卒業できて、自分の身の丈に合っているのかいまだに疑わしいぐらいの企業に勤めることも決まっていて。なんだかんだ一緒にいてくれる友達も、尊敬できる人も周りにはいて。世の中一般から見たら僕はいわゆる‘勝ち組’に当たるのだろう。

そんな僕が「他人のほうが楽しそうな生活を送っていてうらやましい」と言うのは自分のことながら虫唾が走る。結局それは自分が行動していない結果を「他人は条件やら運が良かったから」と片付けて、自分を正当化しようとする行動以外の何物でもない。

よく自己責任論は「強者の論理だ」と言われます。実際に僕も友人に言われました。「お前はある程度恵まれていて、自分の意志で選択ができる環境に置かれていたからそんなことが言えるんだ」と。

もちろん自分が納得できる結果をここまで頑張って手に入れてきた自覚も自負もあります。だからこそ頑張った努力の結果を“誰かの成果”にしたくない、という心理は働いているかもしれない。でも僕自身はここまでに受けてきた理不尽も、辛酸を舐めた経験も、奥歯がぐらつくほどの悔しさも、どうしようもない無力感も、全部自分のものだし、自分の選択が生みだした結果だと受け入れてきたとも言いたいのです。

自己責任について考えるうえでいろんな人の記事とか話を聞いてきました。
自己責任論に異を唱える人に共通するのは「今あなたが苦しい思いをしているのはあなたの責任ではなく、社会や運のせいだ、だから気に病まなくていい」「自己責任論は弱者には毒である」という趣旨だったんですよね。

強者・弱者の議論に興味はないのですが、ここでは自分を弱者だと感じている人を“現状、自分が納得できる環境を手に入れられていない人”とします。

いや、理解はできるんです。自分が納得いっていないことを他人や自分じゃないもののせいにするって楽なんです。他人のせいにすることで自分を責めなくて済むし、自分に絶望することもない。生きていくことを否定する必要がなくなる。他人のせいにしていくことで何とか今日を生きていける人がいるのも一種の事実でしょう。

でもそのうえで、僕は自分で責任が取れる人が好ましいと思うんですよね。個人的に「他人のせいにする=無思考」の式が成り立っちゃってて。

自分の周りの環境って自分でなした細かい細かい意思決定の積み重なった結果じゃないですか。いやもちろん、「昨日の晩御飯何食べたか」みたいなところまで詰めるつもりはないですけど、せめて「どういう進路をとるのか」「どういう環境に身を置くことを目指すのか」ぐらいの大きなものについては理由や根拠も含めて自分で調べて、考えて、他人に説明できる人じゃないと正直信用できないんですよね。

ここ数年、就職活動というきっかけがあることも手伝って身内やら友人からいろいろ相談を受けることもあったんですけど、「これからどうしていきたいとか、どういう人でありたいとか、考えてるものじゃないの?」と聞くと相当数が「そんなこと考えたことない」っていうんですよ。

ちょっとびっくりしちゃって。
じゃあ今までどこの大学に行くとか、どの学部を選ぶとか、大学在学中はどういうことして過ごすのかとか、何を考えて意思決定してきたんだろうって。
僕にとって未来は怖いものだから。怖いものだからこそ後悔したくないし誰かに決められてしまうのも嫌で絶対自分で意思決定するしその責任は自分が抱えるものだと思ってたんです。

でもびっくりした後に気づいたこともあって。考えるべきことすらわからない人も一定数いるのかもな、と。
僕は大人に嫌われるタイプのクソガキで、ちょっとでも早く大人になりたくて背伸びして大人の中に混じって話をするようなガキだったんですよね。
そのおかげもあってか、大人が普段どういうことで悩んでるとか、今後どういう意思決定をしなきゃいけないかとか、その結果を得るために必要なプロセスとか、いろんなものを教えてもらえていたのかもな、と今になって思います。

今の日本の社会って「機会の平等」は保証されてるからいくらでも自己責任論を振りかざせるんですよ。「だって全員にチャンスはあるでしょ?」って。でもそのチャンスにすら気づけない人もいるし、きっと僕が気づけていないチャンスもいっぱいあったんでしょう。

この世の中は残酷です。目標があってもそれに必死になって食らいつかないと与えられるチャンスに手が届かない。でも現状を変えることは難しいから。今の盤面で勝ちにいく方法を考えて、必死に戦うしかないんです。他責、無思考な状態の人にはチャンスが来ない。必死にもがいている側からすると「チャンスが来ないのは社会のせいだ!」とか「お前はたまたま恵まれていただけだ!」とか言われると「お前が努力してなくて結果が出てないだけなのにほざいてんじゃねぇ」ってどうしても思っちゃうものです。

運って何だろうね

自己責任論のカウンターとしてよく使われる“運”
社会生活を送るうえでの運(親ガチャとかね)の個人的な解釈を垂れ流します。

僕にとっての運は「任意の目標に対してあらかじめ与えられた必要な努力の絶対量の違い」だと思ってます。

例えば、僕はそこそこ賢い両親のもとに生まれ、金銭的にも何不自由なく暮らし、ちょっと覚えたり話したりすることが得意だったりする。この初期条件が与えられている中で、会社勤めをするのに求められる努力量はそこまで多くない、“運がよかった”という状態に当たるだろう。
でも僕がアーティストになりたいと思ったら、スポーツ選手になりたいと思ったら。求められる努力量は途方もないことになる。“運が悪い”と言えそう。

こんな状況でもなろうと思えばアーティストにもスポーツ選手にも頑張ればなれる。ただ頑張るレベルが常人の比じゃないとんでもないことになるだけ。運は悪いけど、道は閉ざされたわけじゃない。

うまくいったのはたまたまだ!私は運がないから何もできない!っていう人はきっと求められる努力量が見えていないか、見えていても向き合うのが嫌で逃げているだけか。僕の解釈ではそうなるんですよ。いやひどい話ですよね、僕も自分に対して「こいつ過激派過ぎてしんどいわ」って思うことよくあります笑

自己責任論に傾倒する理由

自分でもわかってはいるんです。過激だし、周りに対して自分の価値基準をベースに話をするべきじゃないっていうのは。でもどうしても僕はこの思考から抜け出せないんです。その理由を整理すればちょっと糸口が見つかるかなってことで、考えてみました。

※ここから壮大な自分語りが始まります。ご注意ください。

たぶん僕の自己責任論の最大のきっかけは5歳の時の交通事故とその後の一連の環境にあると思うんですよ。

5歳で交通事故にあって。脳に傷が入ったかなんかで満足に生活できない日も続いて。目も耳も何度も手術して。勉強も運動もマイナススタート。何か失敗すると「かわいそうにね」とか言われて。そういわれるから自分もことあるごとに「事故のせいだ」って片づけるようになって。

でもある日突然、「事故のせいにし続けてたら永遠に憐れまれて馬鹿にされたまんまじゃん」って思ってからは「多少不利でもその辺の有象無象より結果出してるし」っていうのが僕の支えになって自分で決めたことは頑張れるようになって。

それが最終的に価値観の根幹をなすレベルにまで染みついたのが今の僕ってわけなんですよ。

だから成功も失敗も自分のものにしたいし、自己責任だと思うから頑張れるんですよね。難儀な性格で自分も困ってるんですけど。

これを読んでくれてる人はどうなんですかね、なにが頑張れるガソリンになってるのか気になる!

終わりに

まずはここまで長々とお付き合いいただきありがとうございました。
大学生活も終わりが目前に迫って「なんか形に残さなきゃ」と筆を執ったはいいものの、2年前からあんまり成長してませんでしたね笑

今回書いた内容に関しては特定の誰かを否定したり糾弾するものではないことをご承知おきくださいね、いろいろ思うことはあると思うんですけど。

こういう話、お酒飲みながらするのが好きなんですよね、変わってるってよく言われるんですけど。だれか付き合ってくれる人いたら連絡してくださいませ。

ではこんな感じで。
社会人になってもちょこちょこ書けたらなと思ってます。
またね。

れおざわ

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