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バシェの音響彫刻と幻視される楽園

植物の葉のようなフォーンを備えて、鉄のフレームや鉄板、弦、ガラス棒などで構成された、楽器であり彫刻でもあるバシェの音響彫刻。さまざまな形状のものがありながら、どれもが一目で音響彫刻と分かる。そして一つ一つが有無を言わせない魅力的な存在感を放ち、フォーンから放出される音は独特な倍音を含んでいる。

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バシェの作った音響彫刻17基は1970年、大阪万博の鉄鋼館のホワイエに展示されていたという。
1008個ものスピーカーが設置された鉄鋼館のホールの外では、さまざまな音響彫刻が鉄でできた植物みたいな見た目でロビーに咲きほこっていたのだ。それは圧巻だったに違いない。

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ところで大阪万博全体のスローガンは「人類の進歩と調和」である。その楽観的すぎる進歩主義的なスローガンに、岡本太郎を始め、万博に関わった多くの芸術家は疑問を抱いていたようだ。そして鉄鋼館の演出プロデューサーでありバシェの音響彫刻を誘致した武満徹も。
しかし数々のパビリオンを回った来場者たちは、未来の豊かな暮らしやテクノロジーを想像して愚直にそのスローガンを信じたことだろう。
もちろんバシェの音響彫刻もその一翼を担っていたはずだ。
大阪万博。私はリアルタイムで生きていたわけではないので、映像や資料を見ることしかできないが、実際に行っていたら心をときめかせていただろう。

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しかし万博が終わり数々のパビリオンは解体された。鉄鋼館はそのホールの素晴らしさゆえに残されたが、今では1008個のスピーカーが作動することはなく、廃墟のようになっているらしい。
また、バシェの音響彫刻も長いこと解体されたまま眠っていたという。
しかも、私たちも知っている通り、どんなにテクノロジーが進歩しようと「人類の進歩と調和」は実現されていない。
大阪万博が夢見た未来である現代は、まるで廃墟のようである。

2019年にバシェの音響彫刻のために制作した『廃墟にて』はその前提で作曲された。
未だに「人類の進歩と調和」を果たせていない現代の、戦争や政治的闘争など分断を象徴するワードがツイッター上で呟かれるたび、1970年の記憶を呼び起こすように、万博で演奏された作品や1970年のヒット曲を音響彫刻で演奏するというものだった。それはあたかも分断が生じるたび1970年の夢を再生することで分断を鎮める儀式のようでもあった。

さて、2020年につくる今回の作品はどのようなものが考えられるだろうか。

2020年、1970年の万博からちょうど50年後の東京では、オリンピックが開催される予定だった。万博のときの狂騒は日本で再演される予定だったのである。
しかし実際は違った。疫病の世界的なパンデミックにより、人々の移動と外出は制限され、オリンピックは延期、日々の感染者数の増減と度重なる飲食店などの営業の自粛要請により、経済も人の精神も疲弊してしまった。
そして、ウィルスはもともと私たちの間に偏在していた差別や偏見も顕在化した。どこの国のせいだとか、夜の街の営業のせいだとか人々は言う。

街はますます廃墟のようになってしまった。

この廃墟みたいな世界で私は想像した。
このまま人類は滅亡し、あらゆるものが朽ち果てる。廃墟には草木が生い茂り、鉄でできた植物のようなバシェの音響彫刻にも草木は絡みつく。春には花々が咲き乱れ、荒廃した世界を楽園のように変容させる。
植物の名前が呟かれるのを感知するたびに、花がほころぶように曲が演奏される。
楽園で演奏される音楽…。

前述したが、『廃墟にて』ではツイッター上で紛争や戦争、政治などの分断を象徴するワードが呟かれるたび、前もって用意した、70年の万博で演奏された曲やヒット曲を演奏するというシステムになっていた。
今回の『楽園より』では同じシステムを用いて、ツイッター上で植物の名前が呟かれるたび、花に関連した名曲を音響彫刻で演奏することになっている。あたかも政治的闘争も戦争もない楽園で花が咲くように、である。

しかしこれは1つの虚構でしかない。
この作品のシステムの裏で駆動しているのはツイートという人間の言説であり、人間が作ったテクノロジーであり、メディアである。
政治的闘争が行われてるメディアと同じところで植物の名前が次々と花を咲かすように呟かれている。
幻想としての楽園

あらゆる闘争や情報に疲弊した人類はそれらに目を背けることでユートピアを想像する。しかし、それらは頭の中や、もしくはメディアの中の虚構でしかない。それはどこかVRゴーグルをつけた私たちに似ている。

外では分断が起こり続け、世界は壊滅していくのに、私たちはVRゴーグルをつけ、楽園を幻視しながら死んでいく。
そんな世界でも音響彫刻は悠然と存在しつづけてくれるのだろうか。


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