NY雑感〜作品とアイデンティティに関してとりとめもなく〜

2月、Music from Japanからの委嘱を受けて、NYで弦楽四重奏曲の初演に立ち会い&観光で2週間ほどNYに滞在した。

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コンサートのあとにはオープンフォーラムとして現地の批評家や日本の作曲家、学者で討論が設けられた。

Music from Japanは日本の現代の音楽をアメリカに紹介する活動を45年続けている。今回のフォーラムでも、自身の作品にどのように日本人であることが作用しているか、日本人としての「アイデンティティ」が議論になった。

過去の多くの作曲家が自らの日本人としてのアイデンティティとして日本の伝統音楽から影響を受けた作品を作っている。

しかし自分を省みると、全く日本人としてのアイデンティティを意識して作曲したことはないし、今の世代の作曲家はそういう人が大多数なのではないだろうか。むしろそういう意識が用意してしまう「日本人とはこういうものである」という考えを危険に感じる。いつもアイデンティティへの疑念が自らの創作をドライブしている感覚がある。

しかし生まれ育った環境があるわけで、それが全く作品に影響することがないとは言えない。


一つ、個人的に確信していることがある。それは自分の音の好みである。

自分が生まれ育ったのは横浜の大きなインターチェンジのすぐそば。

常に車の走行音が聞こえ、夜になるとインターチェンジに繰り出す暴走族が家の向かいのコンビニに集合する。

インターチェンジが近いので、近所の公園も高速道路の上の大きな橋梁にある。公園のフェンス越しに下を見ると大量の車が走行している。公園や友達の家までの道程には、高速道路や橋梁を支える大きくて無機質なコンクリートの柱が林立する。

そんなノイズが常に耳に届く音環境、無機質なコンクリートに囲まれている視覚的環境は今の自分の音の好みにかなり影響している。

自分の作品では無機質な音の繰り返しがひたすら続く作品が多い。

おそらく生まれ育った環境のせいだと思う。

はたしてこの環境は日本特有なのだろうか。


ニューヨークから日本に帰ってきて思ったのは、車の走行音の「おとなしさ」である。

ニューヨークの車の走行音はもう少し猛々しかった気がする。それとクラクションやサイレンが常にどこからか聞こえてくる。言うなれば「意味のあるノイズ」に囲まれている感覚だった。

対して日本の車の走行音はもっと静かでクラクションやサイレンも滅多に聞こえない。キレイに舗装された道路とタイヤの擦れる音。日本の車は息をひそめて走る。「意味の希薄なノイズ」といった感覚がした。

もし自分の作品に「日本性」のようなものを考えるとしたらこの「意味の希薄なノイズ」と言えるかもしれない。

常に終わりなく響き続ける「意味の希薄なノイズ」


ある人が日本の中心には皇居という「不在」があると言った。

また「ジャパノイズ」との系譜で考えたらどうなるだろうか。

なんて考える。


しかし、現代を生きる私たちはアイデンティティとどう距離を取ったら良いのだろうか。

特に音楽はアイデンティティを結びつけるのに効果的に作用してしまう。(軍歌やナチスによるベートーヴェン礼賛など)

その人の作品の「〇〇人性」を見出すことに何の意味があるのだろうか。

見出そうと思えば、アイデンティティを意識していない自分の作品にさえ、「日本らしさ」はどこかに発見できるだろう。

「文化論」として興味深く考えることができたとしても、作曲家の「アイデンティティ」と結びつけてしまうのは、本当に意味のあることなのだろうか。

それは時にポリティクスとして、戦略として機能するかもしれないが、そこから漏れてしまうアイデンティティや対立するアイデンティティを生み出してしまう。

とはいえアイデンティティが否定されたり、見つからない状態は辛い状態でもある。人は自らのアイデンティティを守るために命をかけるし、時に自ら命を絶つ。

音楽に携わっている人間としてアイデンティティとどう向き合うべきなのだろうか。

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作曲家/b.1993/現代音楽 コンピューターを用いた作曲をメインに制作している。「身体」「楽譜」「機械」などの関係に興味があります。ここでは音楽やその周辺について考えたことやドキュメントなんかを残そうと思ってます。https://chikukomiya.com
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