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【第23回】山体崩壊と大津波【寛政の普賢岳噴火】

質問 山が崩れて津波が発生することがあるんですか。

概要 

 1792年5月21日の寛政の普賢岳噴火では、山体崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込んで10mを超える津波が発生し、約1万5千人が亡くなりました。現代であっても、このようなケースへの対応は大変難しいと思われます。火山活動と津波の関係について、ぜひ知っていただきたいと思います。

解説

①寛政の普賢岳噴火

 火山活動と津波の関係について聞いたことがあるでしょうか。ここでは、日本の火山災害史上、最大の死者を出した大災害である寛政の普賢岳噴火について紹介したいと思います。
 1990年6月3日に普賢岳で大火砕流が発生し、水無川沿いを流下して43名の方が亡くなったのを御存知の方もいると思いますが、この普賢岳を含む雲仙火山は、江戸時代には、さらに大きな災害を引き起こしました。
 1792年(寛政4年)5月21日に島原城下の背後の眉山の東側で山体崩壊が発生しました。これは、普賢岳の噴火活動中に発生した地震等が原因になっていると思われますが、山体崩壊の直接の原因については、地震崩壊説、火山爆裂説、熱水増大説等が主張されてきました。これについては、現在も専門家の間で意見が分かれています。
 この山体崩壊によって、大量の土砂が有明海に流れ込み、これが10m以上の高さの大きな津波を引き起こしました。津波は有明海沿岸部を襲い、約1万5千人が亡くなりました。

②山体崩壊による津波で1万5千人以上の死者

 山体崩壊までの経緯を見てみます。
 山体崩壊が起こる前年1791年11月から島原半島では地震が続いていました。1792年2月には普賢岳で噴火が始まり、毒ガスが噴出して鳥等が犠牲になっていました。ただ、人々は地震や噴火にだんだん慣れてきて、わざわざ溶岩を見るために人が集まるようになりました。また、その人たちを相手に食事等のお店も出されるようになり、現地が大混雑しました。危険なこともあり、島原藩(松平家)の命令で見物が禁止になったという記録があります。 
 4月には眉山付近でも地震が続き、山鳴りが激しくなりました。地割れ、湧き水、落石、地滑り等が発生したほか、地下水の異常な上昇の記録もあります。地震のために、島原城下の石垣が崩れたり、櫓が倒れたりしたことから、島原藩主の家族や武士の家族たちが避難を始めます。それを受け、町民等も慌てて避難を始め、城下は大混乱しました。城下町からは、ほとんど人がいなくなりました。
 しかし、5月には、地震が軽くなったとうことで、島原藩主の家族や武士の家族が城下に戻ってきました。それを受けて、町民等も安心して城下に戻ってきてしまいました。
 しかし、5月21日の夜8時頃に、強い地震とともに眉山から海中にかけて大音響が発生しました。眉山の山体崩壊が起こったのです。この山体崩壊により、大量の土砂が、大潮の時期の満潮の状態にあった有明海に流れ込みました。これが、大きな津波を引き起こし、島原半島と肥後・天草の沿岸を襲ったのです。これにより、島原半島側で約1万人、熊本県側で約5千人が亡くなりました。夜だったため、暗くて何が起こったかよくわからないまま被害にあった人が多かったと思われます。
 この寛政の普賢岳噴火の特徴は、噴火の規模や山体崩壊の規模が、有名なアメリカのセントへレンズ山やフィリピンのピナツボ山等と比較するとそれほど大きくないにもかかわらず、津波が発生したため、多数の死者が出た点です。
 なお、島原藩主であった松平忠恕(ただひろ)は、災害対策に当たっていましたが、同年6月16日に避難先で亡くなりました。 

③火山活動では山体崩壊等多様で特別な災害が発生

 山体崩壊が起こって、その土砂が海に流れこんで津波が発生するとは、当時は全く予想できなかったでしょう。現在でも対応は難しいと思われます。ただ、地震が激しいということで、城下から避難をしていたのに、地震が少し収まると、藩主の家族や武士の家族が城下町に戻り、それを見て安心した町民等も安心して城下町に戻ってしまったという点が問題です。また、夜間に山体崩壊が発生したため、暗くて対応が難しい時間帯ということも被害を大きくしたと思われます。
 藩主の家族や武士の家族の行動が町民の行動に与えた影響、避難場所から戻る時期、山体崩壊から津波が発生した地形の問題等この事例から読み取ることができる教訓は多々あると思われます。
 火山活動では火砕流や山体崩壊等多様で特別な災害が発生します。このような記録は、後世にしっかり伝えられる必要があります。
 なお、寛政の普賢岳噴火をモデルにした長崎の直木賞作家・白石一郎による歴史小説「島原大変」(1982年)があります。この小説も直木賞候補にあがりましたが、白石が直木賞を受賞するのは5年後の「海狼伝」(1987年)になります。

白石一郎『島原大変』文春文庫

参考文献
国土交通省九州地方整備局雲仙復興事務所, 2003, 「日本の歴史上最大の火山災害 島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊」.


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