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知識マウンティングと劣等感

誰かができることが自分にはできないと感じるときに、自分が欠けているような気持になることがある。

私は若い頃に、人より頭が弱いことや勉強ができないことや一般常識が無いという事がとてもコンプレックスだった。

馬鹿がバレたら愛されないという強迫概念があって、できるだけ自分が知識のない話を避けていて本当は知らないことでも意味が解らない言葉でも、一般人が通常どんなことを当たり前に知っていて自分が知らないのかも解らないから、「知らない」ということをバレないように気を付けて会話をしていた。

そんなコンプレックスが変な発動をすることもあった。
自分がとても好きなもののことになると、人よりも知識があることに勝ち負けを意識してしまっていた。相手よりも自分が知っているということにものすごい優越感を感じてた。代わりに、自分よりも相手のほうが詳しかったりすると自分がその対象のものごとを好きなことを許されない気がしてた。

私が知らない情報を相手が知ってるというのが許せなかった。
相手が知らない情報を自分が知っていることはとても気分がよかった。

「教えてあげる」という立場になるときに優越感がある分、人から教えられることがいやで仕方がなかった。相手が私に対して優越感を持って話しているように見えて、自分が馬鹿にされてる気がして癇に障る。

教えたがって来る人が私は苦手だったんだけど、その原因は相手ではなくて自分自身の劣等感が原因だったし、その苦手な対象は私自身の鏡だった。
私自身が人になにかを教える側にいるときに、無意識に相手よりも優位な立場にいて相手を見下していたから、教えられる側になったときにその相手も同じように私のことを見下して優越感に浸ってるんだと感じてしまってたんだと思う。

私の一番癇に障るワードは「そんなことも知らないの?」という言葉。
みんなは当たり前に知ってることなのに、わたしのみが知らないかのように言われると私は簡単に顔を真っ赤にして感情的になって相手を攻撃しようと必死になった。

私自身が私に思ってること、図星をつく言葉だった。

私は自分の考えや知識にとても自信がなくて、それを認めたくなくてずっとそれがバレないために隠す努力をしてきてた。知識がないことや頭がわるいことを隠すために、自分が知ってることや得意なことを人よりも知ることで優位な立場にいたかった。

昨日の記事の「運命の人」は、まさに「そんなことも知らないの?」というワードを、通常の会話でやたらと出してくる相手だった。
教えたがりで自分のほうが優位な立場でいたいという、私が自分で気づいていなかった部分を本当に鏡みたいに映してくる。

私のこの劣等感を生み出したのは、私が大好きな父だった。
とても雑学好きで物知り(だと思ってた)父は私の母に対していつもこの言葉を言っては、馬鹿にして笑っていたので私も母のことをずっと馬鹿にしてきていた。
小学生のころには父が母を捨てて、頭が良くて掃除ができて綺麗なお母さんを連れてきてくれることを願ってた。

母が父と喧嘩をして家を飛び出したときには、心配をするどころか頭が良くて掃除ができる綺麗なお母さんが来てくれるかもしれないという期待でわくわくした。私は母のことを「要らない人」だと思ってた気がする。

そんな幼少期の父と母の記憶は、私が大きくなるにつれて生きづらさにつながっていった。

頭が良くて言われたことをこなせないと、人から「要らない存在」だと思われると思ってたんだと思う。そのころはそこまで考えることも無かったから、とにかくただただ人から常識がないとか勉強ができないことをバレることを恐れてた。
バレたら人生が終わると漠然と思ってた。

この数年はそんな劣等感と優越感に激しく振り回されながら自分と向き合ってきた。知らないことは恥ずかしいことでもないし、知ってるから勝ちみたいな優越感も自分の劣等感の一部だと解ってから、少しずつ劣等感も優越感も沸くことが無くなってきた。

むしろ他人と比べっこをしてる時の感覚に居心地の悪さを感じるようになった。それは、本当にただ純粋に無垢で純粋な自分自身に統合できている状態の心地よさを知ったおかげなんだと思う。

私は瞑想がとても苦手なのだけど、瞑想で得られると思われる「今ここ」という感覚。今を生きること。

その感覚に自分を連れていくことや自分で操ることもできるようになってきた。それも今、私は大丈夫と思える自信につながってる。


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