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宝くじ、当たらないかな

 私は短歌の歴史をほとんど知らない。っていうか全然知らない。
 つい先日、北原白秋記念館に行ったときに、短歌の家計図(?)みたいなのが展示されてたのを見て、「へええええええ。こうつながるのか」って思ったぐらい知らない。

 短歌を詠むようになって、違和感を覚えたのが、「既視感がある」とか「この人のこういう歌に似てる」とか言われたこと。
 そりゃ、勉強不足ってのもあるかもしれないけれど、これほどたくさんの短歌があふれている中で、それを探すのはとっても大変。だから日ごろから歌集とか読んどけ!ってことなんだろうけど、そんなん、大人になってからはじめたらよっぽどのことがない限り、読めんわ!

 ここで、昔の方たちはどうしてたのか?という疑問がわいてきた。
 和歌がたくさん詠まれていた平安時代などは、今と違って情報網が張り巡らされてなかったはず。
 和歌は恋歌が多い(らしい)のは、ラブレターのような扱いだったとも聞く。
 だから、結構似たような歌がいっぱいあふれてたんだと思う。似たような歌だからどうするとかいう発想はあったんだろうか。

 私が唯一和歌のことを語れるとしたら小倉百人一首。(とはいえカルタ取りで覚えただけなので、深く鑑賞するまでは勉強してません。すみません。)
 「秋の夕暮れ」やら「雪は降りつつ」やら同じ結句のものが意外とあるよね。
 だから覚えるのが結構大変なんだけど。そこがカルタ取りの醍醐味でもあるけど。

 何が言いたいかというと、同じ景色を見て同じ思いをすることって少なからずあると思うのよ。
 同じ表現になるかどうはは別として。
 歌の背景は同じものが絶対にあると思う。
 だから、過去に似たような歌がある歌を結構作ってきてると思う。

 でも、自分を擁護するわけじゃなく、それって不勉強だからってことじゃないと思う。
 知らない=不勉強ではないと言いたい。

 上でも述べたように、この世にたくさん生まれているだろう短歌の中から、似たようなものを探すのってほんとに大変だし、そういうことがあることすら知らない人だって多くいる。
 特にはじめたばかりの人なんかはね。

 過去のことを知ってることはすばらしいことだと思うけれど、それをひけらかす(?)というか、知ってて当たり前みたいな言い方で評をされるのはとても違和感がある。
 逆にこういう歌が過去にあったよ!って優しく教えてくれたらいいんだけど。

 といっても、過去に似た歌があったからといってだからどうした!?ってひねくれものの私は思うのだ。
 だって、たまたまそういう同じ感性を持った人が過去にいたってだけの話。

 早いもん勝ちなんて変だもん。生まれる順番は決められないしね。

 と、いろんな人を敵に回しそうな言い分をしたけれど、そんな中でも、歴史(大袈裟)に残っていくためには、次の2つが重要であると考える。

 その人でしか表現できない何か、と、多くの人に読んでもらうきっかけ。

 前者は精進していくしかないんだけど、後者ははっきりいって宝くじに当たるような感覚。
 どうやって情報を発信していけばいいのか、一個人では難しいよね。特に短歌っていうマイナー分野では。
 だから、珈琲日和とか、年に一度の角笛とかは、少しでも多くの人の目に留まってほしいという思いを込めて発行している。
 私の短歌力では広報力があまりないので、参加されている人気の方のふんどし借りてる感が否めないけど(笑)。
 少しずつ参加される方も多くなっていて、知っている方も増えてきているのですが、これからも頑張っていきたい。

 私も、見たことあるな、なんかありきたりだなって思うようなこともあるし、歌会で評をすることもあるけれど、基本的にはここをこうしたらもっと良くなるんじゃないかなっていう思いで考えを述べるようにしている。
 できるだけ、(短歌を詠んだことがない人でも)長く楽しめるように。
 まあ、単純に過去のことを話せるほど情報量がないってだけだけどね。
 過去の作品を知らなくても、思いを伝えることは出来ると思うし、専門用語を使わずに説明する方が実はとっても大変なのさ。
 幼い子達に説明してわかってもらえるぐらいに噛み砕いて説明できるようになりたいな。
 そのためには、過去の作品よりも言葉力を磨かねばね。

 ということで、どうやら有名な歌があるらしい観覧車の歌を置いておきます。(高所恐怖症の歌ですww)

ゆっくりとまわりまわるよ観覧車わたしは乗らないほうを選んだ/知己 凛(未来2018.12月号)

短歌のこと、息子のこと、思ったこと・・・。 読書感想文がなによりも苦手だったのに、文章を書くことがちょっとだけ好きになりました。 IgA腎症持ちです。