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思い出のメモリーカード~安倍元首相との小さな接点~

国慶節と重なった2006年安倍総理の訪中

2006年10月8日、第一次安倍政権時代の総理「電撃」訪中。

この直前、中国ではちょうど国慶節の大型連休期間(10月1日~7日)があった。国慶節は旧正月の「春節」連休に次ぐ、重要な休暇期間だ。

総理訪中そのものは、ぎりぎり国慶節後だったが、数日前から先乗りする先遣隊、受け入れる日本大使館側の準備のことも考えたら、ばっちり連休期間にかぶっていた。

例年この時期には、要人が来ることはなく、気兼ねなく休みをとれるのだと先輩から聞いていた。そんな中、皇室方を除くとトップの要人である、総理大臣が訪中するなんて、寝耳に水だった。
 
この前年2005年には、歴史認識、靖国神社参拝などをめぐり中国各地で大規模な反日デモが起こっていた。勤務していた北京の日本大使館も投石、投たまご、投ペットボトルなどの被害を受けた。政治的に日中関係が冷え切っていた中、安倍元総理が初の外国訪問先として選んだのは、アメリカではなく中国だった。

この訪中は「氷を砕く旅」と評された。氷のようにかちこちの関係だったから、中国側では安倍総理が到着するまで一切報道されていなかったはずだ。下手に中国国民感情を刺激でもしたら、反日デモなどで訪中が潰されかねない。
 
国慶節期間は連休中のみならず、その前後数日間も含めて中国側の対応は停滞する。いや、「停止する」といっても過言ではないほど、中国人にとって国慶節は帰省や旅行など、やることがたくさんで大切な休暇期間なのだ。

家族訪中のアテンドを友人に託す

当時の私は完全に油断して、家族を呼び寄せることにしていた。確か、総理訪中が知らされたのは家族の日本出国当日。家族側の日程の変更はもちろんのこと、来る気満々でいる家族の旅行キャンセルなどは到底不可能な状況だった。決行することにした「家族訪中」のアテンドを何とかしなくてはならない。

前半こそ何とか自分でアテンドできたものの、後半は北京在住の信頼できる友人たちに完全に託すことにした。私は「家族訪中」ではなく、総理訪中の方の仕事に集中することができた。

万里の長城 写真中央には2008年北京オリンピックに向けたスローガンが見える

海外慣れしていない家族が、最後まで北京滞在を満喫することができたのは、友人たちが貴重な時間を割いて、アテンドを快く引き受けてくれたおかげだ。
 
総理の海外訪問の受け入れは通常、長い期間をかけて準備するらしいのだが、そんな時間的猶予はなかった。家族が北京旅行を楽しんでいる中、こちらもぎゅっと濃縮された数日間が始まることになった。右も左も分からず、ほとんどお役に立てない自分だったが、業務に関わって、その場にいられること自体が嬉しかった。

いよいよ総理到着

一泊二日の訪中に関する資料だけで、まとめている分厚いパイプ式ファイルがパンパンになった。急ピッチで進んだ受け入れ準備が終わり、受け入れのために、空港へ向かった。

歓迎の儀式の最終確認を行う陸海空の軍人。
日中両国合わせて20人以上いそうなSP。
予定時刻と1分違わずに着陸した政府専用機。
国賓用のタラップとくるくる広げられたレッドカーペット。

どれも目に焼き付いている。

中国陸海空軍の儀仗隊
北京首都国際空港に着陸した政府専用機
広げられるレッドカーペット

政府専用機の着陸に合わせて、待機していた黒塗りの車たちが、あっという間に車列を組んだ。当初想定していなかった中国側の車も多く加わったみたいで、急にドタバタし始めた。

空港の敷地は十分に広かったが、一列では必要以上に車列が伸びすぎて乗車に支障がでる。記憶が確かなら、2列か3列縦隊に並び直してようやく車列の全貌が確認できるほどだったと思う。合計40台ほどは連なっていただろうか。後にも先にもあそこまで長い車列は見たことがない。

総理のアタッシュケースとともに

私は総理の手荷物担当として、空港から会議場まで総理のアタッシュケースを預かることになった。文字通り、手に汗握りながらアタッシュケースを両手で抱えて持ち、長い車列の中の一台に乗り込んだ。

自分の手元にある総理のカバンの中には、どんなものが入っているのだろうか。外交上とっても重要なものなのか、はたまた身だしなみを整える日用品のようなものなのか。想像が止まらず、落ち着かないから、窓の外を眺めているようにした。

「国賓用のスピード」で移動する車内から見えてきたのは、広い道路の両側を、約10mおきに並んで警備にあたる武装警察と公安警察の姿。市中心部に入ると、その間隔は数mほどに狭まっただろうか。総動員数はどれほどだったのか、距離から人数を概算してみると中国側の本気度が分かる。北京首都国際空港から市中心部の会議場に至るまでのおよそ20km、途切れることなく延々と続いていたのだから恐れ入った。

私は大事すぎる荷物を1つ持って、ドライバーが運転する車に乗って移動しているだけ。任務はいたってシンプルなのだが、圧巻の光景に、なんとも言えない高揚感に包まれた。
 
この長い車列を全て「青(中国では緑)」で歓迎してくれた信号機。こちらがスムーズに高速移動できているその反動で、北京中心部の渋滞がいつにも増してひどくなっていた。どのくらい待たされたのか、車も自転車も歩きの人たちも、封鎖された交差点ごとに、見たこともないほどにあふれかえっていた。
 

安倍元首相との接点の「メモリーカード」

私の役目は「ロジ」と呼ばれる裏方の仕事で、いわゆる雑用的な仕事も多く回ってきた。その中で1つ、忘れられない「おつかい」を頼まれた。

予備を持ってくるのを忘れてデータ容量が足りなくなったのか、昭恵夫人の要望で、デジカメに使うメモリーカードの買い出しに行く指示が下りてきた。確か「日本製」か「ソニー製」か、それに加えて「容量」の条件が付けられていた気がする。今でこそデジカメで使うのはSDカードに統一されているが、当時はメーカーによって規格の違うメモリーカードを使い分けていた時代である。すぐに、ドライバーの運転する車で電器店に「おつかい」に向かった。
 
当時の日本ならば、何でもそろう家電量販店に行けば、どのメーカーのメモリーカードでもすぐに見つかるのだろうが、中国にはそのような便利な店はなかった。日本製のデジカメが中国でも輸入されて人気となり、市民にもようやくデジカメが普及し始めた時期だから無理もない。こじんまりとしたカメラ屋さんか電器類を扱う市場のようなところを根気よく探すしかなかった。

大使館のドライバーと、周辺の電器製品を扱う店をいくつかめぐった。ドライバーも必死に聞き込みを手伝ってくれた。聞き込みの甲斐もあり、数店舗目で、夫人ご希望のものとまったく同型のソニーのメモリーカードを奇跡的に見つけ、購入することができた。意気揚々と会議場に戻り、担当官へ無事引き渡したときの安堵感を今でも覚えている。

安倍元総理の北京滞在はわずか1泊2日。
あの1GBのメモリーカードに、北京訪問中の安倍総理の姿が保存されることはあったのだろうか。

やっと見つけたソニーのメモリースティック

これが、安倍元総理と自分とをつなぐ接点だ。はたから見たらちっぽけなことなのかも知れないけれど、私にとっては大切な思い出となっている。

当時、強まる日中関係の結びつきを象徴するかのように、閣僚をはじめとする国会議員、各界の要人が毎週ひっきりなしに訪れていた。受け入れる要人の数では在中国日本大使館が日本の在外公館の中で最大だと言われていた。

空港送迎や代理通関も行う仕事柄、多くの様々なVIPに接する機会に恵まれた。マスコミの前や表では良い顔をしながら、裏方である我々に対して、無理難題を押し付けてきたり、横柄な態度を取る国会議員も残念ながらたくさん目にしてきた。

そんな中、受け入れ部隊の一人一人と温かい握手を交わしてくださった安倍元総理ご本人の雰囲気、北京訪問中のあの現場の空気は今でも忘れられない。

誰かのレンズを通したものではない、この目で見て、肌で感じたことをこれからも大切にしたい。

2006年10月 中国北京 釣魚台国賓館にて

ご冥福をお祈り申し上げます。  


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