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【読書】ゲド戦記

今からでも読んで欲しい!地上に永遠に残したいファンタジー小説。


こんなにも小説の主人公を、愛おしく思ったのは初めてのことだと思う。もちろん、気に入った小説であれば、少なからず主人公に共感することはある。けれどそれは、あくまで小説の中の人物であり、「会いたい」などと、本気で思わないのが普通だ。しかし私は、この本の主人公、"ゲド"に、無性に会いたい。会って、人生について、この世界について、たくさんの話をしてみたい。ゲドとなら、心置きなく何でも話せるだろう、何でも聞いてくれるだろう。そんな思いを募らせた。

それは”恋心”とはちょっと違う。たとえそれが架空の人物であろうと、どこかに、この世界のことや、人々や人生のことを、こんなにも慈しみ深く理解している人が、居るのだと思えただけで、心が安らぐのだった。

小説は、時の設定もわからない。場所も定かではない。地球に似ているといえば似ているし、そこで暮らす人々も、我々人間社会に、似ているといえば似ているが、すべては全く架空の時空を舞台に設定した、ファンタジー物語である。しかも、『魔法使い』の話である。

主人公ゲドは、粗野で高慢ちきな少年だった。今にも自分の力で、世界を支配できるかのような幻想さえ抱いていた。しかしゲドは、全てはまるで、そこへたどり着くための試練であったかのように、苦しい運命を自ら引き寄せ、そしてその天賦の力に見合う経験を積みながら、大賢人の道を歩んでいく。

私たちの人生も、同じである。私たちは、その未熟さや高慢さゆえに、数々の困難を、自ら招くことがしばしばある。しかし大事なことは、それに対して、どれだけ責任を負う勇気を持つかということである。もちろん、場合によっては、責任などとれない事態も起こるであろう。それでもそこから何かを得たいと思うなら、結果はどうあれ、その覚悟を持つことは必要なのだ。力を使いたいなら、責任が伴う。ゲドはまさに、そうした真の人生の歩み方を教えてくれる。そして本書は、ゲドという一人の男の人生にとどまらず、その背景の世界のあり方、”均衡”というもの、時代の変化する様など、私たち人間社会における歴史と今現在に、そのままあてはめながら、思案することもできるのだ。

著者、アーシュラ・K・ル=グウィンは、米国のSF・ファンタジー作家。本書のシリーズは、1968年から2001年までに、全6巻書かれた。第1巻「影との闘い」、第2巻「こわれた腕環」、第3巻「さいはての島へ」で、一旦物語は完結しているが、その後の世界の変容ぶりを見た作者が、続編を書かねばならないと考えたという。1~3巻までを読むことで、成熟していくゲドの全貌を見ることができる。

アーシュラ女史は、2018年1月、88歳でこの世界の仕事を終え、天界へ旅立たれた。本書が、少年少女(12歳以上)にも読めるように書かれていることに、彼女の強い思いが伝わってくる。「キミたち、ゲドを見て!世界を理解するのよ!」と、そんな声が聞こえてくるようだ。

十数年前、ジブリがこの作品をモデルに映画化したが、ジブリファンだった私は、さっそく観に行ったのを覚えている。しかし残念ながら、映画の出来はあまり良くなかったと思う。私はその時、まだ本書を読んではいなかった。映画の印象が今ひとつだったことで、本書を手にするチャンスを逃したのは正直なところである。読んだのは、更にずっと後になってからだ。

この本が日本語に訳されたという1976年当時に、「みんなワクワクして読んだものよ」と、ある女性から勧められたからだ。その頃、俗にいう”ヒッピー”たちは、大概この本を読んでいて、ゲドの世界観に浸っていたのだそうだ。ジブリを批判したいわけではない。この方いわく、「あの世界観を映画にするのは難しすぎたのね。ハリーポッタとは違うんだから…」とのことである。結局、私が本書に出会うのも、人生後半、既に後戻りも出来ぬ今となってしまった。しかし、今だからこそ、こんなにもゲドが愛おしいのかもしれない。そう考えれば、今で良かったのだ。

とても印象に残った一文があったので、書き留めておこうと思う。

(p196)大魔法使いのオジオンからゲドへの言葉


「人は自分の行きつくところを、できるものなら知りたいと思う。だが、一度は振り返り、向きなおって、源までさかのぼり、そこを自分の中にとりこまなくては、人は自分の行きつくところを知ることはできんのじゃ。川にもてあそばれ、その流れにゆとう棒切れになりたくなかったら、人は自ら川にならねばならぬ。その源から流れ下って海に到達するまで、そのすべてを自分のものとせねばならぬ」

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最後までお読みくださりありがとうございました。

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