私の死生観 4 前編

今回の話が私の人生にとって最大の出来事であり
死生観を考えるうえで重要な経験だ


母の死

私にとっての最大の出来事
母の死
その死の話をする前に母について話そう

母の生いたち

母はとてもとても田舎の漁村で育った
小さいころに両親が離婚、祖父母のもとで生活
高校入学のころに再婚した母の家に移り住んだ
町役場に勤め、あの家をでるためには早く結婚しなければと思っていたそうだ
当時は昭和50年代、女性が一人暮らしをする文化がなかったのだろう
田舎だからなおさらだ

そうして21歳の時、知人の結婚式の新婦側の介添え人として参加していたときに父と出会ったそうだ
父は仕事の関係で地元から遠く離れた母の生活する漁村に来ていた
父は新郎側の介添え人として結婚式まで少し顔を合わせた程度だった

父は今では少しおなかがでている髪の薄い初老のじいさんだが
その当時は地元でも有名なイケメンだった
地元に彼女もいたらしい

結婚式当日、母は結婚式が終わると一人帰路につく
ふと気づくと後ろに父がいる
ついてきている
それは紛れもなくストーカーだと私たちの笑いのネタになった
結婚式が終われば二人はもう会うことはない

母は特に容姿端麗でもスタイルが良いわけでもなく、昔のどの写真をみてもひとめぼれするような感じじゃないんだがね、と不思議に思う
だがしかし、父は母にひとめぼれしたのだ
無言で着いてきたという
家に着くと父は何も言わずに去っていった

その後どうにか連絡がとれたようで父と母は会うようになり交際が始まった
ん?地元の彼女はどうしたんだ?という疑問、一度だけその彼女の写真を見たことがあったが(残すか?普通)
いやいや彼女の方がかわいいやん、なんで母なの?と大ツッコミをしたこともある

母は家から出たい一心だった
そして母はとても古風な考えを持っているため
初めて交際する人が結婚相手、と思っていたらしい
父も出張で来ている身だから地元に帰らなければならない

ということで交際期間数か月で結婚する
一人目の妊娠は流産して、その後私が生まれる

出産時は里帰りがほとんどの時代
母も田舎に帰り出産に備えた
きれいなこどもが生まれるという迷信を信じて毎日トイレの掃除を欠かさなかったそうだ
それは臨月まで続けたという

ついに生まれた私
へその緒が巻き付き吸引分娩、難産の末に出てきた
吸引されたことにより頭の形がいびつな、そしてへその緒のせいか顔が黒々としていてとてもじゃないけどきれいでかわいいとは言えない赤ちゃんだったと言っていた
「え?これが私の赤ちゃん?」

ひどい話だ

そのさらに1年後に長男を出産し4人で団地生活をしていた
弟はかなり手のかかるこども、私はそっとしておいても静かにしているいい子だったそうだ

そのころから一人でちゃんと生きられる精神が作られていたのだろう

夫の浮気騒動を乗り越え
マイホームを手に入れ
29歳の時に3人目を出産

さすがに専業主婦では家計が苦しくパート勤務を始め家庭と仕事の両立で忙しくしていた
当時私は小学校低学年
もう一度言うが母は古風な考えの持ち主だ
戦後の家族像が頭にあったのだろうか
家族は年齢関係なく助け合う精神
まだ小学校低学年の私におむつの替え方を教え、粉ミルクの作り方と飲ませ方を教え、
放課後帰宅すると弟のお守りを任せられた
夕方までの数時間、母は仕事に出かけた

現代では考えられないだろう
今でも覚えているのが私の友達が遊びに来たときに弟がうんちをしてしまいおむつを替えなければならない状況があった
面白半分、友達におむつを替えさせたことがあって「うんちくさいよー」って半泣きしていた
今でも彼女との思い出話で出てくるエピソードだ

そうして3人目出産の2年後、4人目妊娠
さすがに4人は育てられないだろうと夫婦で悩んだそうだ
中絶という結論となり、予約した病院へ向かったのだが、途中でやっぱり産みたいと考え直したそうだ

私はその判断をありがたいと思っている
私にきょうだいを作ってくれたこと、人生最大のプレゼントだと思っている

そうして6人家族となった


母はパートにいくつか就いた後
生命保険の営業の仕事についた

母の教育

何度も言うが母はとても古風な考えの持ち主だ
男は仕事をして女は家で家事をする

本人は子どものために働かなければならない状況になり働いてはいたが本来はそう思っていた
だから女の私に対して家の手伝いをすることを強制した
すぐ下の弟にはなにもさせなかった
まだ赤ちゃんの弟の世話をさせたのもその一貫だったようだ

母は毎日食事を作り、仕事前に掃除機掛けをするのが日課だった
そのほかの家事、お風呂掃除トイレ掃除洗濯干しとたたむこと
それはほとんど私の仕事だった
小学校中学年あたりからだ
ご飯後の食器の片づけも私の仕事になった

何かを手伝ったらお駄賃がもらえる、わけではない
私の仕事なのだ
弟はなにもせずに遊んでいるのに
私は毎日やらされた
中学以降、テスト期間であっても変わらずに
泣きながらトイレ掃除をしたこともある

なんで弟は遊んでいてもいいのに
私だけやらされるんだろう

理不尽だといつも思っていた

またちょっとでも言うことを聞かなかったり口答えをしようものなら青いプラスチックの靴ベラで何度も何度も叩かれた
朝学校に行く前に怒られて叩かれて右腕にくっきり靴ベラの跡をつけながら登校したこともある
最悪、玄関から締め出され泣き叫ぶ私をみて近所の方に介抱されたこともあるし、真冬の吹雪の中ベランダへ投げ出されたこともある

今ではそんなことをすると虐待となり、警察のお世話になり児童相談所が介入してくることだろう
いやでも
ドラえもんに出てくるジャイアンはおかあさんに叱られるといつも傷だらけだ
当時は普通だと思っていた

あれが虐待だったかと今振り返ってみても、暴力とは言えても
虐待とは言い難い

要はすべて本人の受け方の違いなのだろう

その靴ベラは犬を飼い始めその犬のおもちゃになってからなくなった
つかの間の平穏
さらにグレードアップしたべっこうのような硬さの靴ベラが登場してからは当たらず触らず、とにかく母を怒らせないよう努力していた

弟も同じように靴ベラ地獄を味わってはいたが、いつも私の後ろに隠れようとするためなぜか私も被害に遭うという腹立たしい状況だった

ちなみに3人目4人目のこどもに対してはその虐待のような𠮟り方はしていなかった
その子たちが利口だったのか
母の心境が変わったのか
そのころには虐待というフレーズが出始めていたのも功を奏していたのかもしれない

門限はもちろんあった
高校生の時に耳にピアスをあけ、それを報告すると
「五体満足で産んだのに自分の体を傷つけるなんて」と泣いて怒られた

母には母なりの考えがあり、常識があり、そこに娘や息子を当てはめて育てようとしていた
だが子どものやりたいことは叶える努力は惜しまない
ピアノ、そろばんと私がやりたいと言ったことはさせてくれたし
ピアノに関しては高い月謝はもちろんのこと発表会やコンクールに来ていくドレスを新調したり遠方のコンクールでも連れて行ってくれた

ゴールデンウィーク、夏休み、冬休みは遊園地などに遊びに連れて行ってくれる
きっと理想の家族像が母にはあったのだろう
幸せな家族像が
無理をしてでもこどもには不自由さを与えない
毎日たくさんのおかずを作っておなか一杯になってもらう

代償としての靴ベラ地獄

それが母の教育だった
その教育で形成された私、
一人ではなにもできない、自尊心と劣等感の塊
狭い視野でしか物事を見ないわがままでずるい人間になった

母との関係

結論を言うと私は母と性格が合わなかった
仲は特に悪くはなかっただろうし親子のつながりも感じていた
母はこどものためにという思いで自分の型にはめた教育をしていただけだ
女であればピンクや赤色、男であれば青や黒みたいなことだ
今振り返ると母の常識を私に押し付け、私はそれが正しいと思い込もうとしていたのだ
親の言うことは正しい
でも・・・

高校生の時に文化祭の準備で夜中に家に帰ることがあった
当然家はカギがかかって入れず私は車庫の車の中で一晩を過ごしたことがある
朝家に入ると雷が落ちた
でもその時の私は違った
どんなに殴られても蹴られても悔しい気持ちしかなかった
自我を初めて表したのだ
なんでそんなに怒られなければならないのか
どうして叩かれる?
私は私のしたいことを、しなければならないことをしているだけなのに

いいだけ叩かれて身支度をしてその日は再び学校へ行った

その後1週間口を利かなかった
食事だけは出してくれたし家事の手伝いも行っていた

1週間後父がこれではだめだろうと話し合いの時間を作り一応の仲直りとなった

それから私に少しの自由が与えられた
なんだか生きやすくなった感じがした

母は気づいたのかもしれない
自分の思いを押し付けていたのかもしれないと

むやみに怒られなくなった
無関心ということではなく、私の考えや思いを受け入れてくれるようになったのだ

そうして高校を卒業して私は社会にでる

社会生活を送る中でいかに私が何もできない人間で未熟な人間でダメなところがたくさんある人間なのかということに気づいた

箱入り娘

母は母なりの愛情で私を育ててくれた
厳しくもあり、こどものことは自分がしなければと手厚く育ててくれたようだ

初めて気づいたのが歯医者の予約だ
予約を自分でしたことがなかった私は本当に困った
電話をかければよいのだけれど電話をかけるその行為にためらう
はじめのころは母に予約してもらって連れて行ってもらっていた

甘えだった

そんなことではだめだと思って地元を離れて一人暮らしを始めた

それからは自分との闘い
社会で私はどう生きていくか
自分の性格、行動、常識とはなにかいろいろ考える
自分の周りだけが世界の中心だと勘違いしていた未熟者の目の前に少しずつ少しずつ広くて大きな世界が広がった
多種多様な人々とのかかわりで見えてきた自分の欠点たち
多すぎてこれは一生かけての性格改変だなと思って生きている

そうして数年が過ぎたある時
会社から帰る途中母からの電話があった

元気なの?どうしているの?
近況をお互い伝えあう中で仕事や人間関係で悩むこともあるけど自分はこう考えている、こうしていると話していると
「私もあんたみたいな性格だったらよかったな」と言った

意外だった
弱さを見せたことはあまりなかった
頑張って仕事をしていることは知っていた
母でもそれはそれは悩むことはあるだろうけれど
こどもに弱音を吐くことはなかった

相当つらいことがあったのだろう

その時はそこまで深く考えず
そのあと少しだけ話をして電話を切ったのを覚えている

子どものころは食事の支度の手伝い食器洗いの時によく学校でのこと、友達のことを母に話していた

大人になって一人暮らしをしてからは自分のことを話さなくなった
お互い忙しくて疎遠になっていたし
私は悩みを人に打ち明けたからと言って納得のいく解決策が得られない、結局答えはすでに自分が出している、話を聞いてくれる誰かが欲しいだけ、だと思っていた
話し相手なら近くにいるし、家族に話す必要がなかった
そしてなにより自分のことで精いっぱいだった
家族のことまで気がまわらなかった

母がとても悩んでいて疲れていたことを私は知らなかった

母の病気

親子のつながりはあると思う
第6感的感覚

こどものころ友達の家に遊びに行っているときに
いつもはしないのに家に電話をかけたことがある

電話越しに母が具合が悪くて休んでいると辛そうな声が聞こえてきた
すぐに家に帰り看病したことがある
「やっぱりあんたは頼りになるね」そんなことを母が言っていた

母はたばこは吸うしお酒も毎晩飲む
塩辛いものを好み漬物が大好きだった
作る料理も味の濃いもの、揚げ物が多かった
(そんな食事に私は嫌気がさしていたので私は薄味好き、揚げ物はほとんど食べない)
仕事は何年も営業を続けていた
リーダー職となり部下の指導を行いつつも自分の成績も取らなければならず、とてもプレッシャーのかかる毎日だったようだ
さらに家はきれいでなければならないと家事も毎日やっていた
古風な考えは夫婦関係にも表れていて父は一切家事をしない
どんなに忙しくても父の弁当を作り、3食こどもに食事を作っていた
こどもの学校行事も必ず参加し、保護者会のクラス会長も積極的に行っていた

頑張っていたのだろう
そして無理をしていたのだろう

あの日はなにか心にひっかるものがあった
母が私の住む市の病院で胃カメラの検査をして検査結果を聞きに来るという

結果がわかったら教えてね、と言わず
仕事休んで一緒についていくからね
と返事をした

一緒に行かなくても大丈夫だよ、と母は言ったが
どうしても着いていきたかった


医者を前にして私たちが座り検査内容を順を追って説明された
「ここにね小さくがんがありますね、小さいのでね初期の胃がんですね、すぐに手術すれば大丈夫ですから、大きい病院に紹介状書きますので行ってください」

帰り道
「がん系統になってごめんね」と言った
がんは遺伝するから自分ががんになって申し訳ないと謝った
母ががんになったって私ががんになるとは限らないでしょと返した
(いまでは誰だってがんになるから大丈夫というかもしれないが)

そのまま私は一緒に実家に帰った
家族一人一人に結果を話した
私から伝えた
一番下の妹なんて私がピアノを弾いているところに帰ってきて、
「ひさしぶり~元気~それでさ、ママ胃がんだだってさ~」
軽い感じで伝えたら
「ピアノ弾いてる場合か!」と突っ込まれた

ステージ1程度の胃がんなら手術で摘出すれば大丈夫だと説明された
安心していたのだ
医療の進歩によりがんで死ぬ率は低下傾向
大丈夫だ、私はそう思っていた


紹介してもらった大学病院に入院し検査をして手術となった
手術当日学校がある弟と妹を除いた家族で病室に待機する
数時間後麻酔が効いた状態の母を迎える
そして

「開くまでは小さながんだと思っていたのですが表面的には小さく見えるがんなのですが奥深くがんが進行していて胃の外まで広がっていて腹膜までがんの組織が広がっていました。腹膜転移しています。スキルス胃がんというがんでステージ4の状態です。がん組織は取り除きましたが、今後は抗がん剤治療を行っていく必要があります。ですが肝臓などほかの臓器に転移する可能性は高いです」

本人に伝えますか?

全員一致で伝えませんと答えた

後編へ


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