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散花 Ⅱ


(二)

 美しいものを知った時、人は何を思うでしょう。研ぎ澄まされたような感覚で、例えば色、例えば音や香り、或いは、心の奥深くの記憶とすり合わせて、その唯一無二の存在を確かめるでしょうか。溢れる感動が押し寄せ、抗えず、ただただその波に飲まれるように、胸のあたりが苦しくなり、窒息するほど深くまで溺れてゆく…「息をのむ」とはよく言ったものです。

 その日わたしは街中のビルでこぢんまりとやっている精神科の鍵を閉め、さて今日は好きな作家の新刊を買おうか、それともいつもの喫茶店で食事をとってから帰ろうか、それともいっそ、どちらもやってしまおうかと頭を悩ませておりました。ビルを出て、やはり今日は新刊を買って自宅でゆっくり読んでしまおうと決意した時のことです。

 大きな通りの信号待ちをしている間、反対側の信号に、薄暗い繁華街(いえ、チカチカとネオンが点っていましたから、暗くはなかったかもしれません。)から足早に向かってくる華奢な女性が、急に煙草に火をつけたのです。この辺りは一帯、喫煙禁止の地帯でしたから、私は少しだけヒヤヒヤしましたが、それ以上に、彼女が女性には珍しく鞄の一つも持たないことが気になりました。だけどまあ、信号の向こう側からやってくる人達の中には、そのような人を多く見かけるので、それもそこまで気にならなかったといえば気にならなかったのです。

 いいえ、白状します。

 私はこのとき、彼女の気まぐれで奔放な行動に、そしてその圧倒的な美貌に、憧れてしまったのです。

 『憧れ』という感覚を、私はいつのまにか楽しんでいたように思います。

 研修学生の頃、人間の衝動欲求をテーマに映画を鑑賞して、論文を提出する機会がありました。その"時計じかけ"な映像には、性や暴力を、少しも罪の意識のないままに快楽として存分に楽しむ少年たちの姿がありました。私は最もそれらしく、誰もが彼等と同じ欲求を〜だとか、道徳的支配がどうだとか、近未来が舞台だが既に現代の〜など所謂ウケのいい論文を提出しましたが、心の中では違いました。まさに、彼等の自由な姿に嫉妬し、心の中で何度も彼等になりました。

『憧れ』。それは酷く型崩れしていて、そして魅力的な切なさをはらんでいるものでした。


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