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「すずめの戸締まり」感想1112 ※ネタバレ有

 何度でも思い出すのだけれど、その時僕は南区のアパートにいて、学習机の上のベッドで昼寝をしていた。そこも結構揺れていたようだけれど、幼少期から地震に鈍感だった僕は、揺れが収まり、母親が南側の窓を開けて、ガラケーのワンセグの電波を拾いに行き、映り、事態を把握して慌て始めた物音で、目を覚ましたのだと思う。
 当時、僕の父親は茨城県の大甕町へ長期の出張に出ていて、そこが6弱だか揺れていたのだという情報が入ってきて、これは大変なことになったと母の顔が青くなっていったのを思い出した。メールは届かず、電話もつながらないので、僕たち2人は春先の窓際で、小さな小さな画面をいつまでも見つめていた。
 そのうち、民放のテレビよりも、NHKのラジオのほうが聴きよいとわかりしばらくラジオに切り替えている間に、父親から無事の連絡があり、ほおっとして、晩御飯を食べることになった。父からは「アクエリアスと堅揚げポテトがあるから大丈夫、プレモル(プレミアムモルツビール)もある」と呑気なメールが届いていた。幸いにも父の借りていた社宅は、海面から10mはある崖の上に立っていた。

 御飯のお供に、と付けたワンセグに映ったのは、画面いっぱいの火事だった。気仙沼の一帯が、全部燃えている、自衛隊が撮影した映像だった。そこでようやく僕は、事の重大さの何割かを理解した。その時の愕然とした、しかし少なからず昂揚した気持ちを、今も忘れられないでいるし、今日それをいちばんに思い出した。


 監督自身が言うように、今回の映画が、なにか突飛なものでも、特筆すべきものでもないのは、確かなことだと思う。あらゆる震災文学の中の1つでしかなく、セリフとして、物語の展開として強く伝えているように感じるメッセージも、誰にでも言えるような、優等生なことばかりだ。
ーーー僕たちはいつも死と隣り合わせにある、そんなことはわかっているけれど、それでもこのひと時をともにありたいのだ。
ーーー今がどんなに悲しくても、君は大きくなる。幸せの中で、光の中で大きくなって、幸せに生きるの。
 あとは異形の者との旅路と恋、という、鉄板中の鉄板の物語に乗せて、コミカルにテンポよく、出会いと別れの些細な悦びとさみしさを描けばいい。そうやってきわめて真っ当な、老若男女に受け入れてもらえる、そして言いたいことも言えた、メッセージもある、良い作品が完成して、それを望み通り、この異常なスクリーン数でもって、半強制的に国民に届けることができたのだった。(完)

 だがそれでもなお、やはり新海の根底にある、世界への絶望感、これは上映前に配られた本人のインタビューにもあったが、「この世界が自分とともにピークを越え、老いている」ことに対する無力感が、その寂しさが、ずっと流れ続けていた。これが、この男の描く作品の通奏低音であり、魅力であり、かつ気持ち悪さだ。
 クライマックスのシーン、あの気仙沼の火事(僕の中ではそれでしかなかった)の現場で、当事者である主人公が、その日に向き合って闘うシーンに繋がるまで、この国の各地の、棄てられた町、これから棄てられようとする町を悼んで回る展開は、さながら、監督自身が、この世界と少しずつお別れしていく弔いであった。そして、闘いを終えた彼女が扉を閉めるときに、「行ってきます」と言ったということは、僕らがいずれそこへ帰って、還っていくことを、一種の諦観をもって受け入れるということだった。

 『君の名は。』で過去の自分と精算した新海が次に描いた『天気の子』では、既にその思想は隠されていなかった。どんな物語でも、登場人物の気持ちに天気は寄り添い、天は寄り添う。そして最後には、主人公にとって希望にあふれていたはずの東京にだけ大きな雨を降らせて、町ごと雨に沈めたうえ「大丈夫だ!」なんて受け入れてしまう。災害が一つの「天気」であるとすれば、新海は『天気の子』以降、いや、もっと前、『君の名は。』で彗星を糸守に落とした時から、そうやってこの世界が終わっていく、悲しみに沈んでいくことを、受け入れたのだと思っていた。サマーウォーズのように、災害自体を物理的に避けてしまうハッピーエンドが、この世にとってもう薄ら寒くなってしまったと。

 いずれにしても、この国をあれだけ揺るがした天災を、冒頭の記載のようにすら、語れない人間が、どんどん増えていくのだ。それは善悪の問題ではなくて、事件が歴史になり、そしてまた繰り返していく時の無情さを感じられずにはいられなかった。この現代に流れる日々は、あまりに情報量の多い濁流で、僕たちは必死に自我にしがみ付きながら、航海を続けている。そして無意識に、自分の中の少しずつが、取り残されていく。たまにそれを拾う機会があって、こうやって思い出すことがあると、どうしようもなく虚しく、実体もなく、しかしまだ死んじゃいない温かさを、胸に抱くことになる。当時の遣る瀬の無さを、例えば当事者は、どのように思い返すのだろうか。昨日、今日でこの作品を見た何人が過去に戻り、何人が、戻る過去がなかったのだろうか。観終わってから、僕はそれを一番に考えている。

 絶妙な年齢だと思う。26の人間が、49の人間の、世界との向き合い方について考える。ちょうどひと世代行き切らないくらいのギャップで、全くついていけないわけでも、全くその通りともならず、ある種客観的に、冷徹に眺めることができる。この年齢差であるから、確かに彼が拾った過去と僕の拾った過去は当然違うけれど、それでも、この国では数え切れなくなってしまった「世界の終わり」を、もう一度視界に入れることの重要性は、そこまで変わらないのではないかと思っている。しかし決定的に違うのは、残念ながら僕が彼よりもずいぶんと長く、その終わりゆく世界を眺め続けることになることである。
 しかし前作を観たときには、もうこの男は全ての災難を受け入れて、終末的に生きていくのだろうと感じさせられたのだが、今回は、これからを生きていく震災孤児であるところの主人公に対して、偉ぶって、「君の人生は明るいよ!」なんて言い始めた。ここは僕にとって大きな違和感で、それこそがジェネレーション間のギャップなのかもしれない。僕はまだそこまで世界を手放しに諦めていない、ということなのだろうか。まだ僕は天気の子のところにいて、世界はもう終わりだ、それで大丈夫なんだ、というステージにいる。だから少なくとも、身近にいる震災当事者に対して、そんな絶望的な励ましの言葉を、言う力はない。



 そういえば今回もしっかりと、登場人物の心情に天気は寄り添っていた。この辺、いやに律儀である。
 大雨の中、ふたりして濡れそぼって、叔母と長年積み重ねてきた不満をぶちまけあうシーンは、垂涎モノである。
 是非。


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