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「エモさ」のさじ加減

「繊細だよね」って言われることが、あまり好きじゃない。

友だちとか、家族とか、仕事で一緒になる人とかの、些細な一言で傷ついている自分がいる。でも、それをその人に言うことも、身近な人に「こんなこと言われてさ」って言うこともない。

些細な一言で傷ついた自分を、知られたくないのだ。

彼氏からの連絡がなくて寂しいとか、遠距離がつらいとか、そうやって愚痴もこぼすと、笑って「メンヘラだよね」って言われることがあった。相手に悪気はない。でも、「メンヘラ」という一言で片付けられることに傷ついている自分がいた。

自分のそういう「傷つきやすさ」みたいのが好きじゃない。自意識過剰の裏返しだし、弱さをさらけ出していることになるから。「面倒くさい人」「面倒くさい女」って思われるから。

でも、そういう言えなかった「傷つきやすさ」は、内側で積もり積もっていく。

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たぶん、エッセイを書く人のなかには、そういった「傷つきやすさ」みたいなものを、文章というかたちで昇華できる人がいる。ときにそれはすごい「エモさ」を伴って、読む人の心をうち、絶対的な共感を抱かせる。

私はそんな文章を見るたびに、いいなあ、強いなあと思う。具体的なエピソードを書けない気恥ずかしさ、それによってさらに傷ついてしまうんじゃないかという怖さが、自分のなかには少なからずあることに、気づかされる。

かといって、エモい文章を果たして自分は書きたいのか、と言われると、よくわからない。私の文章の基本となっているのは、大学受験の際に書きまくった小論文だ。私にとってエッセイは、少なからず問題提起をして、自分の経験から踏まえた考察をして、一定の答えを提示する、という型があるものなのである。

でも、エモい文章、嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。具体的なエピソード、ストレートな感情、圧倒的共感。ウェブでは特に共感が重視されるから、むしろもっとエモい文章を書いた方がいいんじゃないかとすら思う。

「エモさ」のさじ加減が、わからない。

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とはいえ、私が今まで読んだエッセイで好きなものを振り返ると、必ずしもエモいものばかりではない。むしろ、エッセイというよりは、論考とか、そう呼んだ方が近いものもある。

たぶん、私にとってノンフィクション=エッセイは、どちらかというと感情を下敷きにしたものでなく、疑問に思ったことを下敷きにしたものなんだと思う。日常で「本当にそうなの?」って思った、そういう小さな疑問。なんで仕事をしている方が「えらい」とされるのか。子育てや家事は仕事より下に見られるのか。なんで結婚すれば幸せになれるとされるのか。

そういう、日常から生まれた、ささいな疑問点。

だから私はやっぱり「やわらかい哲学」エッセイを書きたいんだなあと思う。そこでどれくらい「エモさ」を入れるのか、いつもぶれるし揺れ動いているのだけれど。

自分の文章の型を見つけるのは、いつだって難しい。

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じゃあ冒頭で書いた「傷つきやすさ」はどこにいくのかというと、私の場合小説へとゆく。私がときどき無性に小説を書きたくなるのは、そういった消化、昇華されなかった細かい感情が内側で積もってゆくから。直接的に小説を書くことはないけれど、小説を書き終わったあとはいつもすごくすっきりとした気持ちになっている。

エッセイも、小説も、そう考えるとすごく自己治癒的行為なんだなあと思う。エッセイとか小説とか、そんな大げさなって感じだったら、断片的な日記だって、十分で。

だからこんなにもたくさんの人が、何かしら書きたくなるんだろうか。

あなたはどんなときに、エッセイや小説を書きたくなりますか。

それでは、また。


(goatにあげていたものを移行しました)


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