6.21
生理が近づいてきているからか、梅雨時の曇り空のように気分がどんよりと重い。寝違えたからか肩もどんよりと重たい。わかりやすくイライラし、落ち込んでいるが、特に理由はない、というより、特に理由がないので、イライラと落ち込みの原因を無意識に探しに行ったりしている気がする。周り(というか夫)からすると迷惑きまわりないと思うので申し訳ない(と、落ち着いているときは冷静に思える)。
騎士団長殺しを読み、グレートギャッツビーを読んだあと、他の村上春樹作品も読み返したいなあと思って、騎士団長殺しのひとつ前の小説である、色彩をもたない多崎つくると彼の巡礼の年を読み返した。通しで読むのはたぶん2回目か3回目だと思う。氏の作品にしては珍しく、主人公はあちらの世界に行かず現実世界を生きており、山奥ではなく都心のど真ん中に暮らし、鉄道会社で駅をつくるプロフェッショナルとして毎日新宿に勤めているサラリーマンである。また、主人公のかつての同級生が殺されるのだが、犯人が明かされないことから、ミステリーっぽい作品でもあり、個人的には少し異色の作品として印象深い小説である。
(以下ネタバレも含むと思います)最初読んだときは彼女を殺した犯人が誰なのか純粋に気になって、そしたらとてもすばらしいブログ
https://sonhakuhu23.hatenablog.com/entry/2013/04/28/144204
を見つけたので読みあさり、このブログとセットで楽しんだ。でも今回読み返して思ったのは、この小説を推理小説として楽しむか、そうでなく、いつもの村上ワールド(あちらの世界がこちらの世界に影響を及ぼし、かつ、あちらの世界も「現実」として存在しているか」が存在する小説として楽しむか、どちらがこの小説から、より多くのものを一読者として私は受け取ることができるだろうか、ということだった。そして今回の結論としては、後者の読み方をする方がより多くのものを汲み取れるのではないか、ということだった。
この読み方をすると、物語を純粋に、そこに書いてあるとおりに読めば良くなる一方で、それを理解し咀嚼し、腑に落ちるものとして受け入れるのは格段に難しくなる。言うなれば、文字通り自分という存在をいったん棚に上げ、小説のかたちに自分を合わせ、ここで書かれる物語の世界を<くぐりぬけないといけない>のだと思う。でもそうすることで、この物語からより多くのものを(自分の生きる「現実世界」に)持ち帰ることができるのだと思う。
もうちょっとたくさん書きたいのでたぶん続く。それでは、また。
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