金魚掬い 第九話
「…お父さんは」と夕食中、珍しく紗菜が話しかけてきた。
「今日も、遅くなるんだって」と私は何でもないかのように答えた。
わかりきっていたかのように、紗菜は再び黙り込んでしまった。
ふいに、紗菜がこちらを見上げた。その透明な、何も映していないが故にこちらを見透かしていそうな瞳に、私はふいに身体の奥底から這い上がってくる寒気を感じた。
紗菜が、口を開きかける。
止めたかった。その真っ直ぐな瞳で見つめられることに、私は耐えられなかった。それでも、顔も口も、痺れたように動かなかった。私はそのまま、彼女が口を開くままにさせておくしかなかったのだった。
紗菜が、ゆっくりと、口を開く。
「お母さん……私が、何も知らないとでも、本当に思っているの。
お父さんが、女のひとのところに行って、中々帰ってこないこと。
仕事で忙しい、なんて、ただの言い訳。
どうして、お母さん、見て見ぬ、ふりを、するの。
いい子、ぶっているの。
お母さん……お母さんは、弱いよ」
お母さんは、弱い。
そう、呟いた。確かに、彼女は、私にそう言った。
怒りと軽蔑と哀しみが混ざった色が、こんなにも透き通った色の瞳をつくるのが、只々不思議でならなかった。
私の顔は、引き攣ったように動かなかった。言葉を発しようとしても、舌は痺れていた。喉の奥が、きゅっ、と窄まった音がした。
紗菜はそのまま動けない私を置いて、くるっと背を向けそのまま玄関を出て行った。
追いかけるのが、母としての務めなのだろう。頭ではそうわかっていたし、あの子が本当はそれを期待しているのも、わかっていた。
しかし私は、顔ばかりか、足さえ動かすことができなくなっているのであった。
何もすることができないまま、気が付いたら私の手は、あのノートを探していた。……
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