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「はーい、もっと大きく開けてください」

そう言われたのでサトコはもう限界、というところまで口を開いた。タオルで覆われているので何も見えず、キーンとかウィーンという音だけが耳のそばで響いている。

視界は覆われ、仰向けに寝転がって、口を大きく開いているなんて、なんて無防備なんだろうといつもいつも思う。歯医者さんってどういう人がなるんだろうか。はぐきの根元から歯が生え、舌がせわしなく動きまわり、喉奥が開いたり閉じたりしている小さな世界に、宇宙的な拡がりを感じている人だろうか。

たいていの人は歯医者が嫌いだ。いや、好きな人なんていないかもしれない。だからこそ、サトコが親しくなった友人や同僚、恋人に、とっておきの打ち明け話をするみたいに「実は私ね、歯医者が好きなんだ」というと、驚かれるのだ。

虫歯を削りとるときのかすかな痛み、歯と歯のあいだにはさまった食べかすをとってもらうときの軽やかな音、喉奥にたまった水を吸い取るときのひりひりした感触......そのどれもこれもが、サトコが身体という物体をもった生き物だということを思い出させてくれる。

「虫歯がひとつできるたびに、内心やったあって思ってるんだよね。半年に一回は定期検診行くようにしてるけど、虫歯がないとがっかりしちゃう。」サトコはそう、たっぷりとついた二の腕の肉を揺らしながらひそやかに笑う。

「夜中にどうしても我慢できなくなって甘いもの食べるとさあ。次の日にはもう、身体の脂肪となってるの。二の腕、ほっぺた、手の指、おなか、おしり、足首......ありとあらゆるところにね。そうして肉がついていくたび、私のからだはどんどん広がっていって、いつしか境目があいまいになってる。どこまでが私で、どこからが私じゃないのか、お菓子をたっぷり食べた翌朝に目覚めたときはそう、わからなくなってる。」

「だから歯医者に行くんだ。虫歯が削りとられてるときの痛みが、私が確かに痛みを感じるからだをもってるってことを思い出させてくれるんだよね。歯が削られることで、私はやっとからだの輪郭を取り戻せる。歯が削られて削られて、なにかが焼け死んでいくような焦げ臭い匂いがするのも好き。

ねえ、だって自分って、いつかはいなくなるからだを持ってるんだよ?いつかはいなくなれるって、ここじゃないところに行けるって、それってすてきなことじゃない?」


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