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金魚掬い 第十一話

 母の日記は、そこで終わっていた。それは、「日記」というよりも、母の「懺悔録」に近かった。ほとんど全てのページは、私の知らない「菜々美」で埋め尽くされていた。

母はこのノートを、どうするつもりだったのだろうか。「あの世」に持っていきたい、と言っていたが、本当にそうだったのであろうか。

最後の数行は、明らかに私に向けられたものであった。最後の一言が、只々私を哀しくさせた。

それでも、これは紛れもなく、母がしかとこの世に生きていた証であったかのように思われた。

……私は、母と娘の言うとおり「いい子」だった。母に口答えしたことは皆無に等しかった。そうしようと努力したわけではない。只々、文字通り「いい子」であったのだ。

その三文字が母と娘を、どれほど悩ませたのであろうか。

そのような思いがぽっと浮かんでくると、私は居た堪れなくなった。

足が勝手に動いていた。気が付いたら、無我夢中で通りを走っていた。

あの子が行きそうなところを、手当り次第に探す。

電車には乗っていないという確信が、どこかしらに潜んでいた。

私は、あの子の行きそうなところを果たして自分が把握しているのか、不安であったが、ふと、紗菜が小さい頃二人でよく行った河原が脳裡を過った。私は迷うことなく走り出した。

日は既に、その懐にほとんど身を沈めていた。

暗くてよく見えないけれど、背中を丸めながらも、きっ、と真っ直ぐ前を見るあの瞳は、紗菜に違いなかった。紗菜、と迷わず声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。

夕暮れの仄かな闇に浮かぶ彼女の瞳は、只々透き通った色をしていた。私が口を開こうとする前に、彼女は言った。

「お母さん……遅いよ」そう言った瞬間、彼女の瞳から、まるで瞳が纏っていたベールを一枚一枚外すかのように、次々と涙が零れ落ちた。

私は、自分が何を言おうとしていたのかを忘れ、そのまま口を閉ざしてしまった。

私は、自分が紛れもなくこの子の母であることを痛いほど自覚した。「母」という言葉が腑に落ちた瞬間、自分が突然「母」になったような思いがし、まるで自分を見るかのように、紗菜を見た。

「紗菜……ごめんなさい、お母さん、あなたのこと、一番に考えているようで、考えていなかった。あなたは、それに気づかせてくれたわ。

お母さん、もっと、しっかりする。だから、これからも……」

そこまで言うと、急に紗菜は遮って、

「わかってる、お母さん、わかってる。

私は、お母さんの、娘だよ」

と言った。

日は完全にその身を沈めていた。

けれど、紗菜の瞳は尚一層暗闇に照らされ、私に強く訴えかけてくるのであった。

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