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9.15 | 創世記32 | 書くという行為について

先日のnoteで、じぶんにとって書く意味、について書いたのですが、やっぱり早起きをしてまで…と思ったりするので、実際眠いし、やっぱり書く意味ってなんだろう、って思ったりします。

今はstandfmやインスタも更新するようになったので、文章としての書く意味というよりは、言語化する意味、といった表現に近いかもしれません。

そういう意味では、たまに手帳で日記を書いたり、仕事中にメモしたり、感情がわーってなったときにとりあえず紙とペンを持ったり、買い物やtodoをメモしたり、といった、発信以外の書くことや、日常的な書くことも、言語化の行為として入ってきそうです。

目に見える文字として、録音された音声として、画像とともに切り取られた文字として、現れる。頭の中(にあると思っている)考えや、こころの中にあると思っている、感情は、言葉として出した瞬間には、頭や心の中にあった感情や考えは、9割5分くらい、零れ落ちている気がします。

それがいやで、感情や考えと言葉が乖離している気がして、あえて言語化しない、書かない、アウトプットしない、というのもひとつの考えなのかもらしれません。同じ言語化するにしても、タイミングというものがある。ただ、どのタイミングで言語化したとしても、どうしてもその瞬間に零れ落ちてしまう感情は考えは、あって。

言語化というのは、言語化することによって、零れ落ちていったもやもやの輪郭を、よりクリアにする、ということなのかもしれません。そうしてまた、言語化されなかったもやもやを、言語化していく。

言語化する、書く、というのは、その繰り返しなのかな、と、これを書きながら思いました。

ことばから零れ落ちたものを、また掬い上げて、言語化して…その繰り返し自体が、いまは感じ取れていない感情や、考えや、それらがある場所に、連れて行ってくれる。

書く、という行為は、そんな行為なのではないでしょうか。

それでは、また。

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