痛みは残らず、残るのは痛みがあったということだけ。

7歳のとき、台湾に引っ越した。初めての海外暮らし。それを両親から告げられたのは6歳のときだった。大きい石が頭の上に落ちてきた。「お父さんだけ、行けばいいのに」私は全身が映る鏡の前で泣いている自分を見つめた。おじいちゃんもおばあちゃんも叔母も友達もいて、走り回れる田んぼのあぜ道があって、沈んでいく夕日が見えるその場所を突然去るなんていやだった。ましてや、海を越えて知らないところに行くなんて、当時の私は怖かった。

もちろん大きい石がリアルに私の頭上にふってきたわけではないけれど、20年近く経った今でも、私はその、私の頭の中で落ちてきた大きい石を、ありありと思い浮かべることができる。「台湾に行く」という衝撃は、きっと当時の私の小さな頭には痛かった。でも私は、その痛みを覚えていない。覚えているのは、大きい石が降ってきた、というイメージだけ。

「あなたに私の気持ちなんてわからない」というのは恋愛ドラマかなんかで陳腐化された台詞である。それと同じで、誰かの痛みだって、本当にわかったためしなんかない。擦りむいた膝小僧がどれくらい痛むのか、私も擦りむいたことがあるから想像はできるけれど、その痛みが自分が感じた痛みと同じかどうかは、本当のところはわからない。だって私は、過去の自分が感じた痛みだってもう、わからないのだ。「痛んだ」ことしか覚えていないのだから。

傷つくのが怖いのは、痛みそのものは忘れていて、痛んだという事実は覚えているから。知らない間に人を傷つけるのは、その痛みを忘れているから。痛みはあったくせに、それでも私は愚かにも、きっと人を傷つけている。気づいたときには痛みがあり、痛みはそう気づくまでは、忘れられている。

この先も、誰かを傷つけずに生きていくなんて無理だ。同時に、傷つかずに生きていくのも無理だ。「痛み」そのものは忘れて、「痛んだ」ことは覚えている。それは人間が強く生きていくための知恵なんだろうか。それとも忘れてしまうという愚かさなんだろうか。

人の痛みと、これからの自分の痛みと、どう付き合っていけばいいのか私にはわからない。でもわからない誰かの痛みと、わからない自分の痛みと。「わからない」ことそのものの痛みと、付き合っていくしかない。わからなさに向き合っていくしかない。

それでは、また。


(goatにあげていたものに加筆・修正を加えました)

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