5.13

前回からあいだが空いてしまった。4月も終わり、GWも終わり、今年度のペースが少しずつでき始めている、気がする。

4月やGWは息子が体調を崩しているときが多くて、あいまに私は哲学と宗教史とか、サピエンス全史とか、普段は日記とかエッセイとか小説読んでいるけれど、ちょっとかための本を読んでいた。生活にしっかり根をはっていると、反動で、こういう人文系の本(すぐには役にたたなさそうな本)を読みたくなるらしい。

哲学と宗教史と、サピエンス全史、両方を並行して読んでいたんだけれど、思ったのは、これだけ科学が発達して、「人類はどこからきてどこへ向かうのか」といった類の問題に対して科学的な答えがある時代において、それでも哲学や宗教を学ぶ意味というのは、哲学や宗教の歴史というのは、サピエンス全史のいうところの「共同主観的現実(正確な名前忘れた)」がどう移り変わってきたのかを学ぶためであり、人間のDNAがどうあって、脳の仕組みがどうであって、宇宙はこんな感じっていうのがわかっても、人類はその上に虚構(共同主観的現実、あらゆる文化的価値観や社会システム)をつくりあげることで生き延びてきたので、ベースとなっている生物学的、宇宙論的事実を知るのはもちろん重要だけど、その上に成り立つ「虚構」の移り変わりを知らないと、「今自分はどんな社会、時代に住んでいて、これからどうなっていくのか」という問いには向き合えない。ベースとなっている科学的事実が人類の生物としての限界を明らかにしていくとすれば、虚構的現実は、人類の物語れる能力による可能性(とその破壊的威力)を指し示していると言えるのではないだろうか。

みたいなことをつらつら考えながら子どもの看病をしているのは私にとって生活と形而上のバランスが取れていいらしい。時間があったらもっと勉強するのにというのは私にとっては残念ながらあまり当てはまらず、むしろ時間が限られているからこそモチベーションがわいて本を読んだりする。嬉しいけど悲しい。悲しいけど嬉しいかな。

それでは、また。

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