金魚掬い 第六話
一度だけ、菜々美が駄駄をこねたことがある。あの子が小学校に上がってからのことだ。
その数日間、私は体調を崩し床に臥せっていた。少し開け放たれた窓から、新緑の匂いが風とともに運ばれてきた。
私にとっては床から眺める窓の形に切り取られた景色が、外の世界の全てであった。
外の匂いを嗅いでいるうちに、ふと私はお腹のあたりから突きあがってくるような衝動に駆られた。少し熱っぽい身体が尚一層火照ったように感じられたが、それがむしろ心地よく感じられた。
そのまま足を滑らせ、床に着ける。ひんやりとした感触が、火照った身体に心地よい。
さっと着替えて階下に赴くと、菜々美が宿題をやっていた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるわね」
菜々美は驚いたように、振り返る。
「お母さん、治ったの。どこ行くの」
「ちょっとそこまで散歩。すぐに戻ってくるわ」
菜々美の瞳の色が変わったような気が、した。
「菜々美も一緒に行く」
「…今、お勉強中でしょ。お母さんすぐに戻ってくるから」そう言って彼女をなだめ私はすぐに靴を履いた。久々に感じる窮屈さに、足が驚いている。
外の世界は何もかもが眩しく、それでいて少しばかり刺激が強かった。
それでも沸き立つような衝動に突き動かされ、当てもなく歩いていく。
見上げると、木漏れ日が私に向かって手を伸ばしていた。眼を細め、私も思わず手を伸ばした。そのまま、木漏れ日の向こう側に手が届きそうだった。
ふいに風が吹いて、一瞬、視界が遮られた。
それと同時に、届きそうだった、私が手を伸ばした先にあったものも、掻き消えてしまった。
もう一度、今度はそれを見極めるために手を伸ばした瞬間、「お母さん」と呼ぶ声が耳に届いた。
その声だけが他の雑音を掻き分けて確かに耳に届く不思議を、私はぼんやりと感じていた。
後ろをゆっくり見やると、小さな影がこちらに向かって来ていた。それは紛れもなく、菜々美であった。
通行人が、驚いて振り向いている。
菜々美、と呼ぼうとしたけれど、なぜか声が出なかった。ただよろよろと、駆け寄った。菜々美は泣き叫び、無我夢中で走っていた。あのような菜々美を眼にすることは、久しくなかった。
そのまま、私の中に飛び込んでくる。
ぼんやりと立ったままの私に向かって、菜々美はただ、「行かないで、お母さん、どこにも行かないで」と繰り返し繰り返し口にした。
いつしかあの衝動は過去のものとなっていた。私はしゃがみこみ、菜々美を包み込んだ。
「ごめんね……置いていって。一緒に出かければよかったね。お母さん、どこにも行かないから、ね、だから……」
その後は、喉の奥に引っ掛かっていた何かわけのわからないものに邪魔された。
菜々美は、温かだった。これが私のいるべき、世界だった。
それでも私は、冷たく濁っていても、どこかに透き通った色をもつ、そのような世界に恋い焦がれたのであった。
菜々美は幼心にも、そのような私の胸の内を敏感に感じ取っていたのであろう。
そのことに感謝すると同時に、ふいに底はかとない恐ろしさをも感じていたのであった。……
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