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水面下

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2016年3月の記事一覧

水面下 vol.5

水面下 vol.5

彼女が初めて実家に来た時、僕の母は「少し変わった子ね」と言った。

「そうかな」

「悪い意味じゃないわよ。なんかこう、少し独特ね」

「少し独特」だと「独特」ではないのではないか、なんて僕は思ってしまったのだけれど、そんなことを言うと母が不機嫌になるので、辞めて置く。

「まあ、ゆっくり喋る子ではある」

「そうよ。あなただってだいぶ、ゆっくり喋るようになったじゃない」

「そうかな」

「一緒

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水面下 vol.4

水面下 vol.4

「おかえり」と僕は言った。

「ただいま」と彼女は言う。

「クロワッサンは買えた?」

「ええ。あなたにはフランスパン」

「雨はひどくなかった」

「大丈夫だったわ。焼きたてだったの。あんまり冷めてないといいのだけれど」

「コーヒーを入れようか」

「ええ、お願い」

「せっかくだし、豆から挽くやつにする?」

「そうね。日曜日だものね」

「それとも紅茶にする?」

「ううん。紅茶にはマド

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水面下 vol.3

水面下 vol.3

僕は洗濯が嫌いな方ではない。あの決まった手順を淡々とこなすのが好きなのだ。細いハンガーにはズボン太いハンガーにはシャツ。洗濯ばさみがたくさんついている、何と言ったかあのやつにも決まりはある。下着は真ん中、靴下は外側。勿論、靴下のペア同士は隣り合っていないといけない。

というようなことを彼女に初めて喋ったとき、彼女は持っていたマグカップをテーブルに置いて、笑った。

「そんなに面白かった」

「え

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水面下 vol.2

水面下 vol.2

彼女はとにかくゆっくりと喋る。彼女の世界と僕の世界のテンポはどことなくずれていて、つまりボタンを一つかけ間違えた世界に互いに住んでいる。

僕が焦っていて言葉を端折ったり、怒っていて言葉を乱暴に扱ったり、悲しんでいて言葉を失ったりしたとき、彼女はとても丁寧に、僕が落とした言葉を一つ一つ拾う。

そして埃をそっとふきとり、彼女の柔らかい手の盆に乗せて渡してくれるのだ。

「おはよう」と彼女が言った。

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水面下 vol.1

水面下 vol.1

「湖畔がいいわ」と彼女は言った。

「湖畔?」

「そう、湖畔。湖のほとり。」

「湖か」

「そうよ。興味ないかしら」

「興味なくはないけれど」

「湖畔で、何を」

「そうねえ」

「まあしろなワンピースを着るのよ。そして、洗濯をするの」

「洗濯」

「そう、洗濯」

「洗うのも白い服?」

「ええ、白い服しか洗わないの」

「僕のシャツは洗ってはくれないの?」

「そうねえ」

「まあし

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