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主体的に「なる」ための教師の役割
今日は、東京学芸大学附属竹早小学校で行われた、第2回竹早社会科活動研究会に参加しました。
前回も参加していて、前回の記事はこちらです。
「子どもが自ら学ぶ社会科活動のための手だてを求めて」
というテーマが設定されています。
子どもが自ら学ぶ。
この状態に辿り着くまでに、どのような手立てが必要なのか。
そもそも、自ら学ぶって、どういう状態のことを言うのか。
学校で学んでいる状態は、自ら学ぶと言えるのか。
言葉はかけても、実態を表現するのって難しいと思います。
授業者である恒川先生は、「遊び」と「授業」ということで研究をされています。
休み時間に、子どもたちが集まって自然と遊びが発生するように、授業の場においても、子どもたちが集まって授業が始まる、という姿を主体的ととらえ、そのために教師の介入はどうあるべきか、ということを研究されています。
実際の授業においては、子どもたちがこれまで追究してきたことを発表し合いながら、今、問いとなっていることについてみんなで明らかにしていきます。
インターネットで検索した内容について、子どもたちには難しくても、自分たちで解決するようにして、教師が教える、ということはありませんでした。
授業の後半から、教師が出て、子どもたちがわかっていないことを確認しながら、新たな資料を提示し、子どもたちを導くという介入をしていました。
主体的に「なる」ようなきっかけを与えているのが教師、という印象です。
子どもが主体的に「なる」ような手立てをとっていくのが、このような学びを作る上で必要な教師の役割ということなのだと思います。
おわりに
今回は、「主体的になるためのきょうしの役割」をテーマに書きました。
お読みいただき、ありがとうございました。
ご参考になれば嬉しいです。
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