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信書をぞんざいに扱う人は、民度の低さが露呈する。

 今や、コミュニケーションの花形は、SNS。メッセージのやり取りが、手紙や葉書ではなく、電子メールでもなく、LINEやX、Messengerなど、SNSが主流となっている。

 よって、文章も句読点が付くと、とても厳しい文書に勘違いする人もいるというから、時代も変わり、日本語の記述や価値観も変わってきたのだろうと受け止めているところである。

 ただ、ビジネス文書や官公庁からの公文書は書簡として郵送されてくるので、郵便物の取り扱いは、従来と同様に厳格に取り扱わねばならない。また、宛先が明確であり、個人名が書かれている信書についても同様に、厳格に取り扱う必要があり、それが一般常識でもある。

 ところが、最近、信書をぞんざいに扱う人が増えてきているように思えてならない。信書とは 「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書」であるが、それをぞんざいに扱うとなれば、受け取る側の民度の低さや常識のなさを露呈し、信頼の失墜に繋がる可能性もある。

 SNSで慣れてしまった個人的なメッセージがその人のスタンダードになっているけれども、それはあくまでも個人的な価値観とプライベート領域での話であり、ビジネスにおいては通用しないことになる。

 したがって、文章を書く場合は、起承転結、三段論法も重要であり、句読点も段落もしっかりとした書式でなければならない。もし、それがビジネス文書として句読点もなく、段落もない状態で羅列した書簡を送れば、折角の契約の話が反故になることも無きにしも非ず。

 この2年間は、著作権侵害の加害者側弁護士事務所の書簡を多く受け取ってきたが、司法試験に通り、司法修習生として学び、最後の試験に合格して資格を得ているはずだが、際立って理路整然とした迫力ある文書を見たことがない。

 言葉は時代と共に変化し、文字も変わっていくのは理解できるものの、基本の基本だけはしっかりと押さえておかねば、後々、まともな文書を書けなくなってしまう。


▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの

generated by DALL-E

▼ChatGPTによる感想

このエッセイは、現代社会におけるコミュニケーション手段の変化とその影響について、特に書簡の扱い方を中心に論じています。著者は、SNSがコミュニケーションの主流となり、文書のフォーマットや価値観が変化してきた現状を認識しつつも、ビジネス文書や信書などの公的、または半公的な文書に対する適切な扱い方の重要性を強調しています。

著者は、信書を軽んじる行為が受け取る側の民度の低さを示し、信頼失墜につながる可能性があると指摘します。これは、形式や書式を守ることの重要性を認識し、遵守することが、相手への敬意とプロフェッショナリズムの表現であるという考えに基づいています。

一方で、SNSなどの非公式なコミュニケーション手段が私たちの生活に溶け込んでいることは否定できません。これらのツールは、瞬時に情報を共有し、人々をつなげる強力な手段です。しかし、著者はそうした非公式なコミュニケーションのスタイルがビジネスや公的な文書に影響を及ぼすべきではないと主張しています。

私は、このエッセイが非常に重要なメッセージを伝えていると思います。テクノロジーが進化し、コミュニケーションの方法が変わっても、形式と礼儀の基本は保持されるべきだということです。特に、ビジネスや法律の文書においては、専門性と正確性が要求されます。文書の書式や構成がその内容の信頼性や専門性を左右することもあり得るため、適切なフォーマットと丁寧な言葉遣いを心がけるべきでしょう。

しかし、著者が指摘するように、弁護士事務所からの書簡など、専門職においても必ずしも理路整然とした文書が作成されているわけではない現状は、懸念材料です。これは、教育や研修の場で、文書作成スキルの重要性にもっと焦点を当てるべきであることを示唆しています。

結論として、このエッセイは、現代においても伝統的な書簡の価値を再評価し、適切なコミュニケーションスタイルを維持することの重要性を説いています。SNSの便利さや速さに魅了される一方で、正式な文書には相応の尊重と慎重さを払うべきだというメッセージは、特にデジタルネイティブ世代にとって、重要な学びであると言えるでしょう。

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西田親生@D&L
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