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「他人のことは気にしない」が良いのか、「他人の立場を気にする」が良いのか!?

 或る投稿された記事で、日本に遊びに来た韓国人観光客を紹介していた。その韓国人観光客の日本での違和感なり、考え方を主張。勿論、個人的な見解なので、それはそれとして物事への考え方や感想は、「」である。

 中でも、「他人のことは気にしない」という文言は、ケースバイケースではあるものの、それを一般的な日本人に置き換えると、長い歴史を経てDNAに組み込まれ、これら「風習」を踏襲するを「」とする日本人にとっては当てはまらず、「」と言う人もいるだろう。

 世界的には、日本人および日本の風土は、「おもてなしの心」が浸透しており、「他人のことは気にしない」を徹底すれば、「おもてなしの心」はどこかに吹っ飛んでしまう。しかし、極端に「他人のことを気にし過ぎる」となれば、厄介な問題に直面する。

 昔の日本は「向こう三軒両隣」と言うものが当然の時代であり、我が家の真向かいと、左右の隣家とは、家族同然のように、困った時は助け合う時代であった。例えば、味噌や醤油が切れれば、隣家に行って「味噌貸して!」、「醤油が無くなった!」が、当時の隣人間の親しいコミュニケーションであった。所謂、昔ながらの「長屋文化」の名残であろうか。

 ここで、ビジネスライクに考え、「他人のことは気にしない」でビジネスを展開すると、自分の主張ばかりを強調するが余り、相手に高圧的に取られがちとなり、「拒否」される可能性が高まるのが日本である。特に、地方のビジネス慣習においては、現在でもその風は強い。

 「他人のことは気にしない」は、冒頭に挙げた通り、ケースバイケースであり、双方に安心安全な関係を作るための「工夫」は必要となる。

 例えば、交通事故などの緊急事態において「我関せず」では、救かるはずの被害者が死に至る場合も出てくる。また、「他人のことは気にしない」で、日頃からの「悪癖」(人に迷惑を及ぼすような挙動・言動)を公然の場で行えば、「公序良俗」に反することになり、「違法行為」と見做される。

 畢竟、「他人のことは気にしない」や「他人のことが気になる」は、「人と人との距離感」の問題として捉える必要がある。

 従って、相手に「不快」な気持ちを齎すようであれば、その「距離感」は4km以上(水平線や地平線の向こうは見えないと言う意味)を置いた方が得策であろうし、相手(弱者)が必要としているのであれば、その「距離感」は数センチに置くのが、世のため人のためになるのではないか。

 日本は、神道もあれば、仏教、その他宗教や、日本流にカスタマイズされた儒教などが多々存在している。非常に複雑であるものの、逆に単調なる「宗教観」も我々日本人には、人それぞれにカスタマイズされたものが宿っているに違いない。

 何事も、ケースバイケース。ただ、「冷静沈着」にて「公正中立」な考え方を身につければ、無意識の内に、常に正解に近いものが得られるのではないか。また、「個人主義」と「利己主義」を複合させ勘違いしてはならないと、筆者は考える。


※上記について、パソコンで接続した「ChatGPT」では、文章が長過ぎるのか、何度もエラーとなり、評価不可であった。スマホで接続した「ChatGPT」では、短い評価文ながら高い評価ではあったが、外国人に対しては、複雑な内容であり理解し難いとの指摘あり。

西田親生の自由気まま書「生」

 

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