発達障害というカテゴリー

発達障害という言葉が数年前からメディアなどで、よく聞かれるようになりました。
 ADHDや、LDなどがその代表例ですが、病院で明確に診断される人と、「そうとは言い切れないね」と判断される人がいるそうです。
実は、この明確には診断されないけど、その傾向がある人という人が結構なボリュームいて、でも診断されないがために、適切な対応策にたどり着けないまま困っているらしいのです。私自身も、片付けが苦手だったり、時間を守れなかったり、算数・数学だけ著しく成績が悪かったり、と「それっぽいな」と思い当たることが結構あります。

 一方で、どうして今になって発達障害というカテゴリーが出てきたのかな?と、ふと思ったのが、この記事を書こうと思ったきっかけです。

 脳医学・脳科学の研究が発展して発見された、とか、教育する際に明確にカテゴリー化されている方が対応がしやすい、と言うのはその通りだと思うんですが、それは結果でしかなくて、そのカテゴリーが出現するに至った背景・要因があるんじゃないかと。
 人間の進化がどのくらいの速さで起こるのかは知らないのですが、きっと昔も同じような発達の特性を持った人って一定数いたんじゃないかと思うのです。例えば、エジソンや、アインシュタインがそうだったんじゃないか?と言われているのは割と有名だと思いますが、そんなに有名な人に限らず一定数いたんじゃないか?と。

 私の個人的で勝手な仮説ですが、教育方法の変化が、発達障害というカテゴリーを言葉として作り出し、少なくとも日本においては、最近になって、取り上げられることが増えてきたのではないかと思うのです。
 事例としては以前から一定数(今と同程度)あった、でも、教育による矯正(多くは恐怖による子供の支配)で目立つことはあまりなかった
それが、経済的に豊かさが飽和してきて、生きる意味や、幸せに生きるには?などを考える人が増えてきたことで、子供を尊重して育てる方法が注目されるようになり、”矯正”されないまま育つ子供が増えてきたことで顕在化してきた と考えたのです。英語のDisorderを訳しているだけと思いつつも、「障害」という言葉の選択にも、そんなニュアンスを感じます。

 もともと、日本は同調圧力が強く、「出る杭は打たれる」と言う諺があるくらい「〇〇すべき」ばかりでがんじがらめな社会だと感じます。
 特にこの80−90年間、戦時下の軍国主義の教育、その後の企業戦士を育てる教育、企業戦士世代の親の教育を受けた人たち(団塊ジュニア 私世代が最後の団塊ジュニアですね)は、子供時代に個性を発揮することすら抑制されていて、個性などと言うポジティブな言葉ではなく、周りに合わせられず自分の思うままに行動・発言することはわがままと一喝されていたように感じます。少なからず、私はそういう教育・しつけを受けてきました。
 そういう教育を受けて育った子供が徐々に大人になり、心の不安定や、生きづらさを感じ、幸せに生きるってどんなことなんだろうと考えていった結果、子供を尊重する関わり方や、褒めて伸ばす育児などが注目されるようになり、団塊ジュニアまでは”矯正”されていた子供の個性が尊重されるようになってきたことで、割合が増え、顕在化してきたんじゃないか、と。

 社会が変化していく中で、『子供の脳が時代の変化を先取りして進化してるんじゃない?』という進化論的仮説をある方から伺い、「そうだとしたら生命って、人間ってすごい!」とワクワクを感じつつ、割と自分の仮説はハズレじゃないんじゃないかなって思ったりしています。

 背景や原因はどうであれ、発達障害というカテゴライズが必要無くなるくらい、個性があること、成長には個人差があることが、当たり前に受け入れられている社会に早くなればいいなと感じます。

そのために私は何ができるだろう?

引き続き模索していきます!

※個人の思考のアウトプットなので、根拠の有無などについては、     ご容赦ください。

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