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ありのままに見る

先日、EGAKUというアートによる創造性回復プログラムに
参加してみました。
3時間のワークショップ。長いと思ったけどあっという間だった。
楽しかったです!
ワークショップのフローの内容は
ガイダンス→鑑賞ワークショップ→創作ワーク→鑑賞ワーク→
リフレクション。

パステルで絵を描くなんて本当20年以上ぶりでした。
決まった時間でテーマを描く。
ダンスではない違う表現方法での表現は本当に新鮮そのもの。

とても衝撃的な発見は、
グループで同じ作品を鑑賞して意見を述べ合うワーク。
同じ作品を観ても当然、作品の受け取り方(解釈)は人それぞれ。
音楽も、ダンスも、作品についてどう感じたかを話すときは
なるほどなあ、そういう捉え方もあるのか。。と
記憶のリフレクションだと思っています。
でも、絵は私にとっては違いました。
何か具体的なイメージをそこに置かれると、そのように見えてくる。
言葉を変えて言えば定義づけです。
その脳の無意識のスイッチに本当に驚きました。
ああ!そう見える!
アンコンシャスバイアス、確証バイアスの経験だそう。
そして、その時、私が本能的に真っ先に感じたことは
ああ、こうやってこれは当たり前と何も自分で考えずに
見ていくんだなあと。だってそのイメージ知ってるもん!
でも、その見方はありのままではないことも忘れるわけで。。
意識的にやらないと本当ダメな事だと心から思ったのでした。
なぜかと言うと、めんどくさい事かもしれないけど、
そういう方が自分が幸せだから。自分で選んでるのがわかるから。

物事には当たり前と同時に別の見方がある。
ありのままに見る見方。

ありのままに見れないこともあります。
でも、目を通じて本質を見る方がやっぱり心地よいです。
以前、テキストで画家の友人とコラボレーションした作品を創ったとき
画家の友人が粒子で色が見えると言っていた。その時にわからなかったけど今はなんとなくわかる気がします。
つまり、赤は当たり前の赤じゃない。色の粒子が集まっての赤。
これは赤です。タイトルで、言葉でも定義されたとしても
作品で赤を選んだアーティストの意図に想いを馳せるのが
好きだし、共鳴した時、根拠のない自分が感じている美しさの
確信を確認できる瞬間でもあります。
そして、
自分は何度もただ、アートが好きだと気がつくだけです。
(言葉も抽象的な事を具現化する、定義付けするのはもってこいだけど、
実は言葉はそうじゃない使い方があると言葉のスペシャリストである詩人、小説家、言葉を大切にしている友人達に沢山教えてもらったので、言葉にも思いを馳せます。)

それから、もう一つ、絵を描いている時の間軸!
これは面白かったなあ。本当!

私にとって、ダンスはその瞬間に訂正してもう一度その記憶をゼロにして
創るというプロセスはないです。
俯瞰するとしたら
振付家が指示をしてくるか、自分の姿を動画で見るか。
実際の瞬間は足していきながら、引き算していく作業だと思っています。
時間で言うと常に進んでいて、立ち止まっていても、静寂の中にいても
戻ることはありません。進んでいるのです。

でも、絵を描くことは後戻りができると知りました。
あ、これ気に入らないなあと思った瞬時に
消すことができてそこからまた新たに創り出せるということ。
立ち止まって俯瞰して、そしてゼロにしてまた新たにという
過去からの経験を踏まえてのゼロプロセスがある事を知っていく。
うわ、これ、すごいプロセスだなあと驚きの連続でした。

プログラムを終了して描く体験からの時間軸の記憶を、ダンスでも
日常の中でも実験してみたいと感じているところです。

別の表現方法を体験すること、アーティストやアートを愛する人たち
に想いを馳せること、そして共鳴する何かを感じること。
それは人として大切なことを養い豊かに育んでいるんだと思います。

アート、表現は私にとっては道具ではない。それはLIFE WORKです。
そして全ての人々の中にそれぞれの表現方法があると思っています。

アートは、表現は創作した本人しかわからない。
でも、誰かの表現に出会って、
自分で表現することは
わからないを自分に問いかけ、
その問いかけは表現という経験を通じて
自分が人として大切なことを育んでいることに
気がつかせてくれて

しかもですよ、ずっとそこにあって

こんな風に伝え続けてくれています。
あなたはあなた。私はだあれ?と。

egaku









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