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人を恨まずにコミュニケーションするプロセス

 SNSでのやりとりが増えてわかったことがある。それは私は「ざっと文章を読む」が苦手であるということだ。いや、できなくはないのだけど、それが出来るのはよく知った人の場合に限るのだ。しかもその範囲が私の場合、極端に狭い

 仕事柄、相談ごとのようなメッセージを受けることが多い。相談というか、心情が隠されたメッセージが多いので「本当は何がいいたいのだろう」と考えながら一文字一句読む。世の中にはそういうものをささっと読んでざくっと把握できる人もいて本当にうらやましい

「読む」と「見る」の総体が私にとっての「観察」


 そんなわけで複数での意見交換のチャットは死にたくなる案件だ(笑)
誰かの発言に違和感を感じて、その発言の裏にある本当にいいたいことは何?となると一語一句行間まで含めてじぃぃぃーと観察する時間が必要なのだ。その観察とは単にメッセージを読むということだけでなく、行間を見るという行為も含まれている。観察とは私にとっては「読む」と「見る」の総体のことである。

 観察そのものは苦ではないのだけれど、そんな観察をしているうちにチャット内の会話はすすんでいってしまい、誰が何に対して発言してるのか把握しきれなくなり混乱するという事態がまま起きる。
昔、心理学のスクールに通っていた頃、メーリングリストでメンバーとやりとりをしたのだけれど、あの頃もよく同じような混乱が脳内で起きていた。

一行メッセージに合いの手を入れるのか入れないのか問題


もうひとつ苦手なものにSNS一行メッセージがある
ピロン、ピロンと断片的にメッセージを送られると、「果たしてこのメッセージは雑談なのか?」「それとも相談なのか?」「単なる愚痴なのか?」「何かのセールスなのか?」送ってきた人の意図が把握できずに悶絶する(笑)

  友人に言ったら「そういうのは適当に読み流して、メッセージが終わったら要点だけ拾って返せばいいんだよ」とアドバイスをくれたので、ピロンピロンメッセージが終わるまで待ったことがあったが、最初のメッセージから最後のメッセージまで3時間という長丁場になり、その間になんの反応もしなかったことで「どうでもいいと思ってるんですね」とキレられたことがある。
後日、前出の友達に話したならば、「え?合いの手入れずに放置だったの?』とびっくりされ、合間で「うんうん」とか「そーかー」とか「どういうこと?」とか入れるものなのだと知って、当時、かなり落ち込んで布団をかぶって2日ほど引きこもった記憶がある。

それでも相手とコミュニケーションをとりたい自分がいる

 ここまで自分で書いて、自分のコミュニケーション能力の酷さに情けなくなってきたが、とにかくこれが私であるわけで大事なのはこの自分でどうやってコミュニケーションをとっていくか?ということである。

 まず、最初にやったのは、自分の苦手な部分をちゃんと伝えるということ。私に合わせてくれというこではなく、これを伝えることは、愛想はないけれど悪意があるわけではないという意思表示である。つまり相手に丸腰であることを伝えるということであり、名刺を渡すように、「ワタクシ、こういうものでございます」と自分の特性(得意なこと苦手なこと)を包み隠さず話すということでもある。

その上でピロンピロンメッセージも受け入れる。正直、いまだに涙目になるけれども、相手にもまた悪意はないのだ。そして、悪意はないという合意の上に自分がやれることをする。例えば自分なりに合いの手を入れるとか、返事はちょっと遅くなるねとかメッセージを入れるとか、なんらかしらのコミュニケーションをこちらからも取る努力をする

 ここで大事なのは、その自分の歩み寄り方を人と比べない。私にアドバイスをくれた友人のように華麗なる合いの手と、ざくっと読みによる迅速な返信はできなかったとしても、自分なりの親愛の情を持ってコミュニケーションを取りたいと思っている自分を大事にすること。この部分を取り違えてしまうと「あの人のようにならなきゃ」と我慢して「人の顔色を伺う」的な沼にハマることになる

それでも嫌われる時は嫌われる

最後に、ここがある意味最も大事なことだけど、いくら自分が精一杯やったとしても、相手にそういうコミュニケーションの取り方は嫌です!と言われるいわれることも受け入れる。つまり、嫌われることも覚悟するということ。

嫌われていい気持ちはしないけれど、このプロセスを踏んでいると少なくとも相手を恨むという気持ちは湧いてこない。相手が私を恨んでいるかもしれないが、少なくとも私は心の中で「残念だけど、お互いの世界で元気に頑張っていきましょう。お元気で」と声をかけることはできる。結果、私の心は平和なのだ


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