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「私が悪うございました」という感覚

心理カウンセリングをしていると「自己価値」とか「罪悪感」と言う言葉が日常的に使われる。心理に興味を持つ人というのは、私もそうだけれども大抵は自己価値低め、罪悪感強めだ。そこが極まって何でもかんでも「私が悪い」という自分責めに走る人もいれば、なんで私がこんな目に!と他人責めに走る人もいる。症状の出方は真逆だが根っこは一緒である。もとを正せばどちらも自己価値低め、罪悪感強めなのだ

 ところで、私は異常犯罪心理をテーマにした映画やドラマが好きでよくみる。いわゆるサイコパス(ソシオパスも含む)が出てくるやつね。罪悪感なしに犯罪を犯す人というのがとても気になるのだ。
 私は「不思議?』と思うと無視できないタチである。どうしても気になってしょうがないのだ。ただ、たぶん、気になることがいわゆるみんなが不思議と思うところとちょっとずれているようで、いわゆる「幽霊」とか「超常現象」と言われるものを不思議とは思わない。「まぁ、そういうこともあるよね」と思う。「あっても不思議ではない」のでそこはあまり観察対象とはならない。けれども、罪悪感がないというのは不思議で、だからこそどのような心のからくりによってそれが起きているのか?をガン見してしまうのだ。

サリバン先生の粘り強さにマジ、リスペクト



 そんなふうにからくりが気になっていたサイコパスであるが、最近、罪悪感がないというのは、とても不気味でそら恐ろしいことなのだという体験をした。罪悪感とは「私が悪うございました」という「感覚」なわけだが、この感覚がわからない人との対話は、なんというか「黄色」という色認識がない人に「黄色」とは何かを力説するようなものなのだ。サリバン先生のヘレンケラーに対する粘り強さ、マジ、リスペクトである。私は話せば話すほど耳の奥でザーザーという雑音が大きくなるばかりだった

罪悪感がないというのもまた偏った状態である


自分が悪うございましたという感覚は、自分を省みる上でとても大切だ。その感覚があるからこそ「やっちまった」その自分の根本を振り返ることができる。台風が来たのまで自分のせいにする必要はない(笑い事ではなくそれくらい何でもかんでも自分のせいにして悩んでいる人がいるのだ)が、起きた現実の不具合は自分の在り方が関係しているものなのだ。その視点を持つためにも「私が悪うございました」という成分は自分の内側に残しておいたほうがいい。人が持つ感覚というのはネガティブなものもポジティブなものも意味がある。ネガティブだけ、ポジティブだけという、「何かだけ」という状態は不自然であり、その不自然さが歪みや濁りを作り出す。両方あることで自分自身の浄化が進むのだ。塩梅大事よ、本当に

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